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貧乏徳利雑録(前編)~貧乏徳利との出会い

はじめに

このnoteではあまり書いていませんが、私は日本酒が大好物です。そんな私も、胃の検査で一ヶ月ほど禁酒をしていた時期がありました。
お酒飲めないのは左党にとって苦痛以外の何物でもありません。
そんな中で、
「お酒は飲めないけれども、お酒に近いもので楽しめそうなものないかな」と思っていたところ、偶々貧乏徳利にであう機会がありました。

徳利とは、ごく簡単に言うと、お酒を入れる容器です。
現在では日本酒を入れる容器というと、ビンや紙パックが主流です(結婚式などのお祝いの場面では木樽を見ることもありますね)。
しかしながら、今からおよそ二世代前、第二次世界大戦の前くらいまでは貧乏徳利といわれる徳利(タイトル写真にあるものになります)が入れ物としては主流でした。
本稿では、私がどのような貧乏徳利に出会ってきたか(前編)、貧乏徳利の機能とそれがどうしてなくなっていったのか(後編)について、書いていきたいと思います。

貧乏徳利との出会い

実家の近くに、昔近所で評判だったラーメン屋の店号をそのまま残した骨董屋があります。昨年、実家に戻った際に久しぶりにその前を通ると、
「亀の尾」と大書された徳利が置いてありました。おそらく、量でいうと二升以上は入るのではないか、高さも40㎝近くある大ぶりのものです。

その当時お酒が飲めず、むずむずしていた私は思わず衝動買い。3000円の徳利には「亀の尾」以外にも色々と書いてありました。

亀の尾徳利

(左から、「銘酒 亀の尾」、「十□号」、「麻屋」とあります。また下には注ぎ口があり、お酒をここから直接飲むのではなく、別の容器に移し替えて飲んでいたことがうかがえます)

「銘酒 亀の尾」が何か、という話については、別途項を改める必要があるでしょうから、ここでは割愛します。(福岡県の伊豆本店さんの醸す「亀の尾」がここの徳利の主ではないかと思いますが、確認できておりません)

さぁ、ここから私の貧乏徳利探しがずぶずぶと始まります。

貧乏徳利を求めて(小諸編)

長野県の小諸に旅行に行ったときのものをいくつか。

一つ目は、蕎麦屋の店主に無理を言って写真を撮らせてもらったものになります。

依田川徳利

左から、「銘酒 依田川」「依田酒店」「電話五五番」。こちらは、サイズも小さく、直接杯などにそそぐタイプですね。サイズはきちんと測っていませんが、概ね二合から三合入れといったところでしょうか。酒銘とおそらく酒蔵である販売元、および電話番号の記載があります。なお勝手な推測ですが、依田酒店は現在の信州銘醸の前身の一つなのかなと思っております。(信州銘醸は1958年に現在の上田市にある4蔵が合併して誕生、現在は「名峰喜久盛」「瀧澤」「鼎」などを醸しています)どなたか情報あればこちらも教えてほしいです…

小諸に現存する唯一の酒造である大塚酒造さん(銘柄:浅間嶽)にも残っていました。

大塚徳利

(左の写真には酒造名である大塚の文字が、右のやや縦長の徳利には、大塚酒造の屋号であるヤマ吉の文字が見えます。現在は大塚酒造さんは酒販業は営んでいないそうですが、かつては、蔵の隣で酒販もされていたと、大塚社長より伺いました)

貧乏徳利を求めて(佐倉編)

つづいて、千葉の佐倉を訪れた時のものをいくつか載せておきます。

佐倉には国立歴史民俗博物館(以下歴博)という、実に素晴らしい博物館があって、常設展の中に「近江商人の関東展開」というコーナーの中に徳利の展示がありました。本稿ではあえて貧乏徳利に着目しておりますのでこの点は捨象しますが、今でも栃木県内の酒蔵に名前を残す「十一」や「日野屋」といった屋号、および北関東(特に栃木県)での近江酒造家とのかかわりは掘り下げ甲斐のあるテーマで、青木隆浩先生などが研究されているようです。

前置きが長くなりました。歴博に置いてあった徳利はこんな感じです。

国立歴史民俗博物館内の展示

(細かい写真は撮れませんでしたが、右から二番目の矢尾本店は秩父錦のものかと思われます、個人的には滋賀の「鈴正宗」を醸す矢尾酒造とのかかわりが気になるところですね)

酒販店の貧乏徳利

ここまで、実は、「酒蔵が酒銘をいれた貧乏徳利」についてばかり記載をしてきました。最後は、酒造業を営まない酒販店が用いた貧乏徳利についてです。実は、個人的にはこの箇所が一番重要だと思っており、後編への伏線ともなっております。

さて、先ほどの歴博と同じ佐倉、京成佐倉の駅前に「藤川本店」という、酒販店があります。現在の当代卯之助さんで五代目。こちらにも、貧乏徳利はありました。
実はこちらには二度お邪魔したのですが、下の写真は藤川家の蔵に眠っていたものを二度目の訪問時に陳列していただいたものとなります。

ヤマニ藤川本店の徳利

(大型の徳利から小さいものまで、藤川の文字とヤマニという藤川家の屋号があることがうかがえます。大きなものは、最初の亀の尾の徳利同様、下に穴が開いており、保存としての機能が主であったことがわかります)

余談ですが、佐倉には「旭鶴」の銘柄でお酒を醸す田中酒造店さんがあり、そちらの徳利も藤川本店さんで拝見しました。

旭鶴徳利

銘柄とともに、酒蔵の場所(佐倉市馬渡)と蔵元が明記されている、シンプルなものとなっています。

佐倉にはもう一軒酒屋が残っており(数屋さん)こちらでも、お店の徳利を拝見する機会に恵まれました。

数屋の徳利

こちらは単に酒販店の名前が書いてある、シンプルなものですね。

余談ですが、かつて佐倉には16軒もの酒販店があったそうですが、現在は上記の藤川本店と数屋だけとのこと。

実は藤川本店の当主卯之助さんにはほかのテーマでいろいろ話を伺う機会があり、本当は記事にしたいのですところ、構成や書き方などまだまとまっていない部分もありますので、別に機会を設けて文字にしたいと思います。

後半に向けて

さて、ここまでは、自分で探せた範囲の貧乏徳利のご紹介となりました。後半では、貧乏徳利の機能と、そしてなぜ廃れたのかを、いくつかの文献をあたりながら考えたいと思います。


(※タイトル写真は長野県の大澤酒造さん(代表銘柄:明鏡止水)で見せていただいた貧乏徳利になります)

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