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私たちは有機農家であるか?

私の頭の中では私たち夫婦は有機の野菜を育てていると思っている。ところが、売り場に出すとなると「有機」という言葉を使ってはいけない。自分の商品を「有機」と呼んでいいのは正式的に有機農業をしていると認定された生産者だけだ。ある意味この事実には納得。誰もが医師や弁護士だと名乗ってはいけない。まぁ、言うのはただだけど、いくら言論の自由があるとしても自分がそう言ったからといって病院を開いて患者さんからお金を取ることは出来ない。勉強をし、資格を取り、それなりの技術や知識がある証拠があってこそ医者や弁護士として人の身を任せられる。私が「有機野菜を作っています」と言っただけでは証拠にならない。実際に「有機」だという認定がないと「有機」としては売れない。それは消費者を守るため。私だって「有機」と示されていた産物が実は農薬をバリバリ使って作られたと知ったら騙されたことに怒りを覚えるに違いない。

そこで私は考えた。自分が思っている「有機」とは何か。そして、自分の野菜を「有機」と呼べないのであれば、どのように表現するべきか。まず、私が思っている「有機」は単純に化学肥料や農薬を使わずに野菜を育てること。それなら「無農薬」とか「化学肥料不使用」と言うように表現できる。それだけの違いだろうか。農林水産省のホームページによると有機農業の定義は以下の通りである。「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組み換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業をいう。」この定義でも私たちは有機野菜を作っていると言えると思う。遺伝子組み換え技術は使っていないし、竹や落ち葉を資源として使い土作りや生命の多様性を意識して農業に取り組んでいる。ただし、それを証明するために必要な書類を書いて、取り調べをしてもらい、料金を払っていないので「有機」として認定をされていない。

という訳で、私たちは消費者との関係の中で認めてもらうしかない。農薬を使っていないと言えば、そう信じてもらうしかない。それはでも盲目な信頼ではない。畑を見れば竹で作った支柱立てや落ち葉で作ったマルチは丸見え。野菜に穴が空いていたり、虫が付いていたりしているのも農薬を使っていない証拠だ。問題は、現代の営業界では穴が空いていたり、形が異常だったり、虫が付いていたりするのは「欠点」であり、野菜の価値を下げるものと見られる。見た目が「綺麗」イコール美味しいアンド安全。いわゆる「醜い」野菜は質が悪いとされる。ところが、果たしてそうでしょうか。その「綺麗」な形や色をしている野菜の裏には遺伝子組み換えがあったり、穴や虫が付いていないということは農薬まみれであったり、見えていない事実がたくさん隠されている。見た目が良いからきっと美味しいと判断するのは人の外見が美しいからきっと心が優しいと判断するのと同じ。どちらも表面しか見ていない。野菜が美味しいかどうかは見た目だけではなく、口に入れて決めてもらいたいものだ。そう言った意味では、先ず私たちの農場に来て、自分の目で畑を見て、この場で野菜を食べてもらいたい。そこが消費者との信頼関係を築き上げる鍵ではないかと思う。

小規模で農業をしている私たちは工場のような野菜作りを目指していない。如何に効率よく、速く、多くの物を生産し、如何に多くのお金を稼ぐことができるかは私たちのゴールではない。土や野菜や虫たちと向き合いながら、自然が与える資源を用いながら、自分の体を使いながら、人間らしく生きること、神様に感謝して生きることを大切にしたい。そして、そのような生き方を消費者とも分かち合いたい。野菜を買ってくださる人たちの命を大事に思っているからこそ農薬を使いたくない。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、それが本心だ。「生産者」と「消費者」という壁を超えて生きている者たち同士で生活を分かち合い、美味しくて身体に良い物を食べ、支え合うコミュニティーを築きたい。

私たちは有機野菜を作っていると思っていたけど、本当に目指しているのは単なる「有機農業」ではないということに気が付いた。有機農業の定義を見るとあくまでも生産の方法を指している。人間関係については何も触れていない。私たちが実行しようとしているのは有機農業ではなく、「全体論的農業」と言ってもいいかもしれない。頭と心と体を使った農業。自然界と人々と神様を視野に入れた農業。学びや繋がりを大切にする農業。人間が食べ物無しでは生きる力を失うのと同様に心が満たされていないと生きる力を失うと知っているからだ。いくら農薬を使わずに野菜を作ったとしても、それを頂く感謝の心や仲間と分かち合う喜びの心が無ければ健康的で豊かな生活に貢献していると言えるでしょうか。私たちは神様から与えられた自然界と人の命を大切にするときに心が養われると信じる。自分の作った野菜を「有機」と呼ぶには認定が必要だが、自分の生き方には認定なんて要らない。全体論的農業から生まれた野菜を是非みんなに食べてもらいたい。できれば、両耳農園で一緒に。感謝と喜びを持って。

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