日記・銀杏に山茶花

今日、銀杏いちょうの紅葉が見頃と思って近くの銀杏並木を見に行くと思ったよりたくさんの人が集まっていた。

子ども連れの家族も多く、着物を着て写真撮影をする若い女性、離れたベンチでなにやら仲睦まじいカップル、親子三世代でまだ歩くのもままならない子どもを抱く人など、老若男女とはこのことかというくらいさまざまな年代の人々が居た。

紅葉は年齢性別関係なく綺麗にみえるものなのだと思って銀杏並木を往復した。それで僕は満足して帰ろうとすると白い山茶花さざんかを見つけた。

木には深緑のしっかりとした葉が生い茂り、花は開ききったものもあればまだ硬いつぼみのものもあった。いくつかはすでに花びらを散らせていた。

それを見ていると、ひとつの花が咲いて散りゆくまでのすべてを一度に見せられているような気がした。花のすべての時間が同時に存在しているみたいだった。

それからふと、その花の集まりはまるでさっきまでの老若男女の集まりみたいにも見えた。まだ歩き始めたばかりの子どもや、白髪の夫婦、この一番綺麗に咲く花はさながら先の着物の女性のようでもあった。

紅葉する銀杏に人の目が集まり、誰も見向きもしない白い山茶花を僕だけが特別に見つけた気分がした。花に手をふれてみると思ったよりもしっかりしていて、ふれていると安心した。花は儚い? 本当にそうだろうか。

花よりも紅葉のほうがかえって儚いと僕は思っている。色づいたと思えばあっという間に散ってしまう。見頃も分かるようで分からない。落葉したあとの木々のさみしさはなんだろう。満開の桜は見逃しようがないが、見頃の紅葉はなぜか見逃すときがある。

山茶花や椿、あるいは柑橘類の永遠にも見まごう深い緑色の葉が好きなのはそのせいなのかも知れない。あの青々とした深緑の葉っぱが好きだ。もしかしするとそれであの白い山茶花を見つけられたのかもしれなかった。



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