『キリエのうた』を見た
キリエのうたを観た。
岩井俊二監督の作品を初めて観た。だから彼がどんな映画を作る人なのか、僕はよく知らない。
観たばかりで、うまくまとまってはいないけれど、観たばかりのうちになんらかを言葉にしておくのが趣味なので書いておく。
どこまでも、どこまでも救われないな、と思いかけて、救われるってどういうことを言っているんだと問い直したくなる。
主人公のキリエは東京にいる間ずっと住む家のない暮らしを続けている。それをずっと僕は「どうにかなんないのかな」と思って見ていた。せめて彼女に住む家くらいは与えてほしいと、物語へと切に願っていた。
しかし結局はキリエは定住の家を持たないまま、物語の終盤、彼女はネットカフェの一室で歌を歌っていた。それはどこか幸せそうで、もしかしたらそれがこの物語の用意したキリエへの救いだったのかもしれないと思った。
なにもかも失っても、最後にほんとうになにもないなんてことは、たぶんなくて、たとえば自分の身体だけは死ぬまで一緒に自分とともにあるのかもしれない。
人はどこまで失えば持つものをゼロに近づけられるのか、そういうことを描く挑戦だったのかもしれなくて、普段何気なく感じている不安や、さまざまな災厄と言える脅威への恐ろしさや、暴力に直面したときの救われようのない負の感情は、僕をどんどん追い詰め、僕からいろんなものを奪っていくが、そうやって失ってもなお残るものは必ずあるのだと、この物語は言いたいのかもしれない。
それは、喪失へのレジリエンス、といったらいいのか、キリエには絶対に歌を歌うことだけは残されていて、それがあればあとはなんだっていいのだと思わされる。歌を歌うところだけは、どんなものにさえ奪えない。
歌う、というのは行為なのであって、その核はたぶんもっと別にある。だから、なんらかの理由によって歌うことさえ叶わなくなっても、歌うことで確かめられていた他の侵襲を許さない核の部分は別にあって、これを別の方法で確かめるだけのことだ。
喪失が人を貶めるのではく喪失に目が眩んで手元になにが残っているのか分からなくなるから人は自ずから自分の人生に絶望を見出すのかもしれない。
失うことはショックだけれど、それは全てを失ったわけじゃない。なにを失ったかではなく、失ってもなお残っているものに目を向けてみたいと思える。
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