『ハンチバック』感想

HTMLのタグからはじまる冒頭は、メタフィクションであることを示す。私たちはフィクションの中のフィクションとして、まずそれを読む。

それは「ではそのフィクションの書き手は誰か」という問いへと接続する。そしてその答えは圧倒的な克明さで明かされる。

『ハンチバック』では「読者に健常性を要求する読書文化の健常者優位主義」が提起される。それは健常性によって読書文化を享受していた読者へ反しのある針のように間違いなく刺さる。そのため、なぜその反しがつかえて抜けないのか考えることになる。

「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること」の5つが『ハンチバック』の中で読書文化が要求する健常性として挙げられる。紙の本は人間が健常性を保てなくなれば読書のバリアとなる。

『ハンチバック』が紙の本で難なく読めている状態そのものが証拠となって、読んでいる間も、その後も同様の考えを巡らせる必要に迫られる。

なぜ、読書はすでに万人にひらかれた行為だと思っていたのだろう。

読書は、あるいは本は、読者を待っていて、読者が選ぼうとすればいつでも選び取ることができると思っていたのは、実は限定的な可能性であって、人間全員にひらかれているわけではまだない。

健常ではないという状態に対して、私たちはしばしば同情のような目線を送ってしまうことがある。しかしその原因は、健常ではないことに問題があるというよりも、健常であることを常に要求する構造にあるように思う。それはつまり、自分たちが作り出してしまっている健常性への要求の基準から外れた人を基準の中の安全圏から「基準から外れている」と指摘しているに過ぎない可能性がある。

健常を求める構造は、健常を欲するという欲望から始まっているのかもしれない。個人の「健常でありたい」という欲望が他人にまで及んで、健常であれと願う。

願いだけでは読書はできないということを『ハンチバック』を読んだ後であればよく分かる。

いったいどれくらいの事物が、健常であることを欲したまま寝そべっているだろう。そして欲望のままに欲し寝そべる者へ『ハンチバック』の主人公は察知できない皮肉を艶色にして与えてやる。それは復讐のようにも思える。ただし復讐だけが理由には限らない。それは、私たちが健常であるというだけで、ずいぶんたくさんの選択肢を選びまた捨てているからだ。

もしよろしければサポートお願いいたします。