日記

はじめて盛岡で冷麺を食べる。おいしい。夏はすいかが乗っているのだが、それが特においしい。冷麺にすいかを乗せようと思ってくれた人ありがとう。盛岡も梅雨が明けたらしく、真夏の盛岡を歩く。先日の大雨の影響で中津川が増水している。八幡宮のとなりでビアガーデンが開催されていて、おおらかな神さまがいるんだと思った。盛岡の方々はおおらかだと言われている。とはいえ人がみなそうだというわけでもないだろうとは思う。が、やはり盛岡で暮らす方々とお話する機会が多く、おおらかさは確かにあるような気がする。いつも寄る本屋さんでたくさん本を買ってしまう。盛岡へ来るたびにたくさん本を買う。こんなに買ってどうするんだろう、と思うが、でもやっぱり読みたい。読むためには買わなければ。家にはまだ読んでいない本がたくさんある。僕は読むのが早くない。読む人と書く人、いったいどっちのほうが多いんだろう。でも、それは下り坂と上り坂、どっちが多いでしょうかみたいな問いのような気がする。ほんとうの意味で、読む人の中でなにも書かない人はいないのではないかという問いが浮かぶ。言葉を使うことは特別なことだろうか。もちろん、日本は世界的に見れば識字率は随分高いだろうから、言葉を読み書きできることは特別だとして、読むことと書くことに大きな溝はないような気がしている。言葉を書いてみるか否か、純粋にそれだけのように思える。書かない人の中に埋まっているものよりも書いている人によって言葉で明らかにされたもののほうが優れているだなんてことはない。それはまだ言葉にされていない。ただ、言葉にされていないことのほうが言葉にされていることよりもずっとたくさんある。すべてを言葉にするには人生は短いし、また言葉になった言葉をすべて読むにも人生は短いと思う。言葉になったほんのひとすくい、それを読んで、読むと書きたいことがめきめき湧いてきて、なにか書いてみる。読んでいるうちに書きたいことが湧いてくる本は読んでいてわくわくする。読んでいるのに読んでいることとは別の話が頭の中でもわもわ浮かんでいる。本の話の筋と書きたい話の筋が頭の中で渾然一体となって、読むことと書くことが同じところにあるとき、言いようのない興奮が脳を駆け巡って僕になにかを書かせる。読むことは書くことのすぐ近くにある。

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