日記・正欲を観た

朝起きて、書いた小説を読んで赤字を入れる。体調が良くて久しぶりにずっと行きたいと思って行けていなかったミートソーススパゲッティしか出さないお店に行くことにして、でも映画を観たいなと思って時間を調べると順調に行けば観れると分かって急いで出かける。お店の人と久しぶりに少しおしゃべりをして元気が出る。そういえばコロナ禍のころびっくりするくらいこのミートソーススパ食べてた。でも同じようにびっくりするくらい食べてた人がもうひとりいて、その人は仕事場が転々としている人のようでたぶんこっちにいるときほとんどミートソーススパ食べてたんじゃないだろうか。それくらいおいしいミートソーススパだ。食べ終わって急いで映画に向かう。映画は正欲を観た。何度も映画館で予告を観て気になっていて、最近知り合った方がこの映画の制作に携わっていたそうで、それを知って観ようと思った。上映開始前に間に合って、映画は始まった。これを観て、良かったと言う人は信頼できると思った。いろんなことを思い出しているうちに映画が終わってしまって、あと1時間くらい観たかった。普通ではないということがしんどい10代だった。普通ってなんですか、みたいな、たぶんたくさんの人が当たる壁なんだろうけど、けっこう真面目に真正面から体当たりして、でも普通っていうのはごっつい壁で、みんな自分が普通ですよって顔でいるしそうやって話すから自分もなるべく普通ですよって顔をしていた。もしかして、普通ってみんなで普通ですよって顔をし合うことなのかもね。普通こうですもんね普通、みたいな、なんだっけ、そうだ、ズンドコベロンチョ。ズンドコベロンチョみたいなもんだと思う。みんなズンドコベロンチョがなんだか分かってないくせにズンドコベロンチョってズンドコベロンチョですよねって顔で生きてる。それで、いやズンドコベロンチョってなんですかって聞くと(はぁ〜)っていうため息とか「知らないんですか、おかしいですよ」っていうやりとりをする。誰も知らないくせに。だからこの映画観てなにか分かった気になっちゃったらズンドコベロンチョなんだと思う。男と女って恋して交わるものですよね、みたいな、そういう領域がズンドコベロンチョだとして、正欲を観て分かったと思ったこともまだズンドコベロンチョの域を出ない。だから多様性って言葉もズンドコベロンチョなんだと思う。多様性ってなんですか、って聞いたら(はぁ〜知らないんですか)ってなるんだと思うけど、知らないことがたくさんあるってことを認めるが多様性なんじゃないの、って。ズンドコベロンチョってなんだろうって考えることが大事で、これもズンドコベロンチョなんだねって気づくことが必要なんじゃないかと思う。それを、なーんも考えないで「えっ!それズンベロじゃないです!おかしい!」って言っちゃうのは全然ズンベロじゃないんだよね。ズンベロってズンドコベロンチョの略。いろんなズンベロがあるということに気づくにはなにかしらの方法で知っていかないと分からない。自分のズンベロだけでズンベロを判断するようになるからおかしくなる。誰もほんとうのズンドコベロンチョを知らないくせに。映画を観た帰りに胸がいっぱいになって夕方だというのになにも考えていなくて原作本と茄子しか買えなかった。

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