掌編小説・イルカの行方

 イワシの群れがきらきら光る。大きな水槽の中でひと塊りになって、群れの一匹一匹がつかず離れずの距離を保ちながら泳いでいる。
「わたし、ああいうのこわいな」
 彼女はそれを指差して、僕の目を見た。こわい、というより怒っているように見えた。
「みんなで生きてる感じがしてこわい」
 この水族館でいちばんの目玉の大きな水槽の前を、一度きりだけそれを言うために立ち止まって、あとはつかつかと歩いて過ぎてしまうので、僕は彼女のあとを追いかけるしかなかった。背中の肩甲骨の辺りまで伸ばした髪をピンク色に染めている彼女を見失うことはない。
「もういなくなっちゃったんだけどね」
 イルカのホルマリン漬けがあったのだと彼女は言う。それを見るのが好きだったと言った。
「でも捨てようがないと思う。あんなに大きなイルカを漬けたのなんて、他にないし」
 ホルマリン漬けにしたイルカの捨て方を想像できなかった。海に沈めるんだろうか。それとも燃やしたり、土に埋めたりするんだろうか。
「生きてるイルカを見ると思い出しちゃう。ずっと探してるのに見つからなくて」
 彼女はそのイルカについて既に何度も僕に話している。何度も何度も、彼女がその話をするたびに僕は彼女を水族館へ連れて行く。ホルマリン漬けのイルカを探しに行くためではない。彼女の話を聞いているうちに僕が水族館に行きたくなってくるせいだ。
「見たかったら見ててもよかったんだよ、イワシの群れ」
 イワシの群れは見ていて飽きない。際限なく形を変え続けて捉えようのない感じが好きだ。誰もイワシの群れの形を正しく思い描くことはできない。思い描くうちに崩れていくのが正しいイワシの群れの姿だからだ。
「ねぇ、そろそろお腹すいた」
 時刻は十三時を過ぎていた。僕たちは昼食を取ることにして、水族館の中のレストランに入った。
「見て、これイルカの刺身だって」
 メニューには刺身のような写真がある。それは魚の刺身というより馬刺しに近い印象を覚えた。
「イルカって食べたことない。食べてみてもいい?」
 僕は気乗りしなかったけれど、彼女が食べたいならと思って海鮮丼ふたつとイルカの刺身を一皿頼んだ。ほんもののイルカの刺身が目の前に来たとして、僕には食べられるかどうか分からなかった。
 窓の向こうには海が見えた。今日は曇り空で風が強い。波も多少荒く、穏やかな気持ちにはなれなかった。
「どうして、わたしたちって」
 彼女は僕に向かって喋っていて、僕は海を見ていた。
「別れたあとも水族館に来ちゃうんだと思う?」
 そこで鳴っているはずの海の波しぶきの音を想像した。ザーッ、ザーッ、となり止むことのない波の音を、なり止むはずのないのにここまで届かない波の音を、そこらじゅうに立つ白波から、何度も、たくさん、たくさん想像した。
「わたしはね、こう思ってる。水族館はわたしたちにとってどこでもないどこかで、わたしたちはどこでもないどこかでしか会えない」
 どこでもないどこか。それはどこか現実離れした場所という意味なんだろうか。言葉の意味は分かるが、なにを言おうとしているのか分からない。
「でも世界中の水族館をぜんぶ壊すわけにもいかないし、世界に水族館があるかぎりわたしたちはまたこうやって会うと思う。わたしがイルカのホルマリン漬けの話を始めて、そのうち水族館に行きたいって言い出して、わたしはその誘いにきちんと乗る」
 僕はその話にうなづきながら、でもそれは彼女がイルカの話を始めるからで、彼女がイルカの話をしなければ彼女と水族館に来ることなんてない。海から目線を外して彼女を見ると髪の色が綺麗だった。僕はこの色が好きなんだと思う。彼女の髪の色を見ているうちに海鮮丼ふたつとイルカの刺身が来た。イルカの刺身はやはり馬刺しのように見えた。思えばイルカは哺乳類だ。
「さきにこっち食べてみるね」
 彼女はイルカの乗った皿を寄せて、箸で刺身を一枚持ち上げた。醤油をつけて、躊躇なく口に入れる。
「思ったよりおいしいかも」
 彼女はそう言って僕の手が届くところに刺身の乗った皿を置いたが僕は手をつけなかった。
「わたしが探してるのも、みんなで食べちゃったのかもね」
 海鮮丼も刺身も食べ切った彼女は、ほとんどそう確信しているみたいだった。
「食べてなくなっちゃったもの探すなんて、あほらし」
 彼女は海を見ていた。その横顔から満足は感じられなかった。空になった丼と平たい皿と、醤油皿のわさびの混ざった濁った醤油の色と、彼女の髪の色を順番に見て、それから彼女はもう一度、あほらし、と呟いた。

   §

ホルマリン漬けのイルカを覚えてる永遠を知る命は無いね


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