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日記・カフェの大きさ

 カフェには大きさがあるということを知った。知ったというか、改めて言葉にして分かった。

 カフェになにを求めているかにもよるが、カフェはある程度の認知度を持つと観光地に近づいていく。観光の一部としてカフェが内包され、それはカフェにとって商業的な成功かも知れないが、一方で落ち着きや安らぎのようなイメージは失われていく。

 観光地化したカフェは予約しなければまず入れないだろう。あるいは予約を一切受けず、当日受付のみで長蛇の列を作るかも知れない。人の出入りは多く、可能な限り客数を捌くためにシステマチックな接客が目立つかも知れない。

 きっとそのカフェには魅力があるのだと思う。そういう慌ただしさやシステマチックな接客によるマイナスを勘定してもここのカフェに寄りたい。そうやってカフェが商業的に成功していく。

 一方で、そういったカフェではゆっくりしたいという願いはあまり叶わない。本を読んでいる間に客は何組も出入りし、忙殺された店員が少しミスをすれば行列の待ち時間の間に神経を尖らせた客から運悪く叱責を受けるかも知れない。

 どういう像を描いてカフェの大きさを保つかというのもカフェには必要なのかも知れないと思った。一度大きくなってしまったカフェをまた小さくするのは案外難しいのではないだろうか。

 魅力があるカフェには人が集まるが、集まり過ぎるとカフェとしては大きくなりすぎてしまう。そうなるといままでとは雰囲気が変わってしまうのだ。

 小さなカフェのあの雰囲気をなんと説明したらいいのか、こじんまりとした、個人経営で、店員さんの目がほどよく客から離れていて、それくらいがちょうど良くて、気がつくと何時間も経っていて、でもそれを咎めるような気配は全くなくて、長くいるとたまに閃いてしまって文章が書きたくなるような、そういうカフェだ。

 観光地にあるカフェと日常的に何度も行きたくなるカフェはやっぱり違うのだと思う。僕は勝手に商業的に成功することがカフェとしての成功かと思っていたが実はそうではないと今日思った。カフェにはそれぞれ描く形があって、それは必ずしも人気や売り上げとは紐づかないのだと思う。

 儲かることが成功なのだと思い込んでいた。そういう刷り込みの中で生きてしまっていた。それだけでは手に入らない価値があるのだと思った。

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