日記・本屋を照らす灯火に薪をくべたい

 今日は余計なことを言ってしまう日だった。言わなくてもいいこと、思ってもいないこと、とにかく言葉が浮かんでから口に出るまでの間隔が短く、そういう時は後悔しがちだ。

 本が好きだ。でも知識を愛してはいないんだなと思う。どちらかといえば芸術として、それは映画を観るとか絵を鑑賞するのと同じような感覚に近くて、もしかしたら本から知識を得ようと思っていないのかも知れない。

 最近、僕は知識を深く愛している人と関わる機会が増えて、そういう人たちは電子書籍を読んでいる。確かに本は紙面に知識を乗せているわけなので文字が読めれば紙でも画面でも同じだ。

 僕はやっぱり紙の本が好きなので、本の装丁とか触り心地とか、ページをめくる時の感覚、そういう知識ではなく感覚に訴えてくるものに良さを感じているのかも知れない。

 だから写真集とか画集も好きだし装丁が凝っている本なんかは特に魅力的に見える。やっぱり本そのものが好きなんだと思う。

 たとえば車が好きな人がいて、車は人を乗せて走る乗り物だから、最も快適な運転ができる車が最も人気かといえばそうでもないし、そういう意味でいえば僕は「本のオタク」ということになるのかも知れない。

 本が好き、と一口に言っても、僕は物体としてそこにある本そのものが好きで、知識を深く愛している人とはやはりスタンスが違うんだと思う。でもそれは趣味趣向の違いなので、フルーツでいちごが好きとかぶどうが好きとか、それくらいの違いだと思っている。

 「本が売れてほしい」というのはそういう物体としての本が好きだというところから来ていて、本を読む誰かの知識が深まればいいなとか、本によって社会全体の教養が深まればいいなという利他的な気持ちからではないのだ。

 というか、僕はそこまで本に役割を背負わせていない。本は読みたい人が読み、手に取りたい人が手に取るもので、なにかの役に立つから読みなさいとか、本を読まなければ人間として堕落するとか、本はそんな脅迫めいたものではないと思っている。

 本屋に生き残ってほしい。特に僕が好きな本屋には生き残ってほしい。そういう欲望であり僕の自由を守るための小さな戦いのような気がする。

 気を抜いていると失われてしまうものがある。それがこの数年で感じたものだったし、本屋という場所を照らす灯火があるとしたら、そこに絶えず薪をくべ続けなければならないし、僕はその灯火の明かりの下で本を読むだけではなく、薪をくべる側になりたい。

 なんとなくそう思うけれど、これは間違っているのかも知れないし、部分的に正しいのかも知れないし、でも僕は僕の自由を守りたいし、ただ他の文化を照らす灯火から薪を奪ってきてまで本を照らしたくはない。

 本が売れたら世界が良くなるかは分からない。本がなくたって生きていける人はたくさんいる。まぁ、嗜好品といえば嗜好品なのかも知れない。

 でもやっぱり、本を「役に立つから」という理由で生かしてはいけないと思う。裏を返せば役に立たない本はなくなってもいいということになる。

 役に立たないものはなくなってもいい、という価値観は恐ろしいと思う。多かれ少なかれ僕たちは居場所を間違えれば「役に立たない」人間だからだ。

 時と場合によって誰もが役に立たなくなり得る。なんとなくそれが僕の頭の中にあるんだと思う。「役に立たない」なんてすごく乱暴な言い方だけれど、でも語気が強い人は簡単にそういう言葉を吐く。自分は本当に役に立たないんだろうか、と思い悩む人もいると思う。

 でも役に立たないからなんだというんだ。僕は本からそういう気持ちを貰っている気がする。この世の僕が読んでいないたくさんの本たちは僕が読むという役に立っていないからという理由で失われたりはしない。

 僕がいつか買って読んでいない本だって、その本を役に立っていない本だとは少しも思っていない。僕が本棚に置いておくかぎりその本はそこにある。

 役に立たないことを許す、というのも違う。この本は読んでいないけどしょうがないね、なんて思ったりしない。そこに本がある。以上。それだけ。

 実はその本たちを「積ん読」だとは思っていない。そこにあるだけだから、普段は意識の中にないけれど読みたい時になったら背表紙がすっと意識の中に現れる。その本だけはっきり見える。

 そういう瞬間が本屋でも起こる。たくさんの背表紙の中で「これだ」と思う。

 でもこんなことを他の人にも求めるのは違うと思う。本を読まない人に、膨大な本棚の中からあなたが「これ!」だと思う本に出会ってください、なんて崖から突き落とすようなものなんじゃないか。

 そう思うと僕はかなり勝手な思いで本屋の灯火の火力を上げようと躍起になっているのかも知れない。気をつけよう、本当に。

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