日記・命を人質に助けを乞う話
「死ぬ」と宣言して、もし普段連絡を取らない誰かが連絡をくれたり会いに来てくれたとして、その人は自分の生死を人質にしないと現れない相手なんじゃないかと思う。
コンビニに置いてある期間限定のお菓子と同じ原理で手に取ってもらった命になってしまう気がする。もしかしたら命も同じようなものなのかも知れないけれど。
悲しいけれど、人にあまり見向きされない命もある。命そのものは平等だとしても、名の通った芸能人と名前も顔も知らない人、どちらの人の死に驚かされるかといえば大体は前者だと思う。
命の重みと孤独は別の問題である。孤独な人間の命が軽いという話ではない。誰かの助けを必要とした時に誰を頼れるか、そういう時に自分の命を賭け金に使ってしまう感覚は苦しい。
でも、自分の命を人質にして助けてもらえるならその方がいいと思う。どうせなくなってしまう命ならばそうやって利用した方がいい。
むしろ、どうやらあいつが死ぬらしいと分かってそれから連絡を取ったり会いに行くとしたら、それは助けに行く時ではなく自分の命を差し出してまで助けを求めさせてしまったことを詫びに行く時だろうと僕は思う。
僕は他人を助けようと思って普段から生きていないので、死ぬと分かってから連絡を取ったり会いに行く相手がたくさんいる。なんだか申し訳ないが、僕も自分の人生に精一杯だし、と言い訳をする。
書いていて思い出したが、最近読んだ落語の話でこんな一節がある。
(訪ねてきた八っつぁんに隠居が尋ねる)
「(前略)……今日はなにか用でもあって来たのかい?」
「いいえ、用がありゃあ来やしねえ」
「おかしいね。用があるから来たというのは分かるけど、用がないから来たというのはどういうわけだい?」
『道灌(どうかん)』より
「用があったら来ない」という言葉に胸がすく思いがした。用がないから会いに来るのだ。打算なしで会う人の尊さを思った。
死ぬと分かって連絡を取ったり会いに行くのもある種の「用」なのではないかと思う。そういう人には死ぬと分かる前に会いに行きたい。
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