掌編小説『消えもの』

 夏に届いた手紙はわたしのことをずっと前から好きだったと書いていて、過去を遡るのはとても疲れるからそれだけでもうぴしゃりと心が閉じてしまい、それから、ああもうわたしはまたあの人をどうやって否定しようか考えなきゃいけないんだと思うと部屋にはいられなくて家を出て電車に乗って街へ出た。夜の街は誰もがわたしを見ていて誰もがわたしを見ていない。街の一部になったような心地がしてきたらあとはもうなにも考えないで歩き、手が届く草を毟っては路上に捨てる。黒いアスファルトに緑を分けてやると街灯があまりにも明るすぎることに気づく。夜が明るい。わたしはそのことを正しいような間違っているような気持ちで見ていた。つやのある葉が明かりを反射して、それをじっと観察していると体がふわふわして歩くにも歩けず、そこから逃げ出せなくなった。スマホの連絡先からサイトウをすぐに見つけて電話をかける。
「起きてると思った」
「もう寝るところだけど」
「このあいだの瓶ビールの話」
「あああれね、やめたよ」
「え、なんでよ、わたしもう3本集めたのに」
「いや、よく考えたら大変でしょ」
「サイトウがやりたいって言うから」
「じゃあもう俺はやりたくないです」
「ふーん。じゃあいいよ、あとで持ってくから」
「いやいらないから代わりに脚立買ってきてくれない?」
「キャタツ、ってどんなの」
「脚立? えーどんなの、うーん、デカければデカいほどいいよ」
「デカければデカいほどいいものなんてないでしょ」
「それがあるんだよ、脚立はデカければデカいほどいいの」
「じゃあ今度買って持ってく、キャタツ」
 キャタツという言葉をわたしはどうしてこのときになるまで聞いたことがなかったんだろう。サイトウが求めているものがなんなのか分からなかった。デカければデカいほどいいキャタツなんて、きっとろくなものではないが、サイトウが言うなら買ってきてやろうと思った。
「本気で言ってる?」
「本気でデカいキャタツ持ってくよ」
「ノノムラさあ、もしかしてお金持ち?」
「お金持ってないけど、キャタツほしいんでしょ」
「いや、やっぱいらないや」
 サイトウのことが好きだと思う。だからキャタツがなんだが分からないけれどキャタツがほしいと言われたらわたしはサイトウの部屋にキャタツを持っていく。この辺りでいちばんデカいキャタツを買って持っていく。サイトウはなんと言って受け取るだろう。たぶん「思ってたのと違った」だと思う。
「やっぱいらないってなんでよ」
「いややっぱ借りてくるよ、何回も使うわけじゃないし、ほら俺んちから少し歩いたところに町工場があるじゃんか。そこなら貸してくれそうだし」
「あっそ」
 じゃあね、と電話を切ろうとしたときにサイトウは言った。
「あーでもノノムラ、今度メシ行こうよ」
「お金ないからやめとく」
「キャタツは買えるのに?」
「キャタツは買ってもいいけどご飯にはお金使わない」
「へんなの」
「それはおたがいさま」
 わたしは電話を切って、ふたたびアスファルトの上のちぎれた緑を見た。体の自由が利いてきて、もう歩き出せそうだ。
 わたしはサイトウに一度振られている。だからもう一緒に食事へ行く気はしないがサイトウの部屋をわたしがあげたものでいっぱいにしてやりたいと思っている。どんなにわたしと会わなくてもわたしがあげたものを見てわたしを思い出せばいい。だからわたしはサイトウがほしいものを聞き出してはサイトウの部屋に持っていく。だから消えものは嫌だ。消えにくいもの。捨てなければ残るもの。わたしの代わりに彼を見続けてくれるもの。わたしは絶対にサイトウから忘れ去られたくない。
 帰ろう。あの手紙は捨てよう。少しずつちぎって花吹雪みたいにして道路の上に撒こう。それを車が踏んづけて風がさらって雨が汚して、わたしの知らない空き地で土に帰ってほしい。春の頃、歩道の隅でいっぱいになった桜の花びらはどこに行ったんだろう。暑くて忘れていたけれど夏の前に春があって、わたしは桜の花が咲く前にサイトウに振られたんだった。サイトウはわたしのことが好きじゃない。でもあの人は、わたしのことが好きだった。わたしは、あの人が好きじゃなかった。好きじゃなかった、というか、わたしはあの人を見て、どうとも思えなかった。適当に食事へ行くのは全然構わなかったけれど、でもそれだけで。あの人は食事代をわたしの分までぜんぶ出してくれたけれど、でもなんとも思わなかった。あの人に誘われるから行った。どこへでも一緒に行った。それなのになぜか少しも、あの人に対してはサイトウへと思ったような気持ちは持たなかった。
 消えものでわたしを満たそうとしたあの人の気持ちが、いまなら分かる。手に取るように分かる。だからわたしは消えないものでサイトウの部屋をいっぱいにしたい。少しずつあの人がわたしのなかから消えてゆく。ああ、あの人はやさしかったんだと気づく。でもそのやさしさも限界で、しかたなく手紙を書いたんだろう。それでも手紙なんて捨てるのは一瞬だ。あの人はわたしからやさしく消えてゆく。あの人がわたしを消えるもので満たそうとしたのは、わたしにその気がないと分かっていたからだ。わたしは、わたしへの気がない人に消えないものを与えて、それでサイトウをどうしてやりたいんだろう。
 家に帰ってきて、スマホからサイトウにメッセージを打った。サイトウはこの時間、いつも起きている。


 なんか困ってることない?

 困ってはないよ

 部屋で壊れてるものとか、買い替えたいものとか

 ないなー、でも腹はいつも減ってる

 炊飯器ないの?

 あるよ、でっかいの

 炊飯器もデカいほどいい?

 まあ10升炊けるといいよね

 業務用のやつだ

 うん俺それ持ってる

 うそだ笑

 いやほんとうだよ10升炊いてるいつも

 ひとりで食べるの?

 そう、1回でふりかけ1箱消える

 えーやば、おかかもたまごも混ざっちゃうじゃん

 あーそうそう、いろんな味を混ぜるとうまいよ梅味とのり味とか

 ふりかけ混ぜて使う人はじめて見た

 うちの家の人みんなそうだよ、ふりかけブレンドしてる、あ、ていうかふりかけくれる?

 ふりかけはやだな

 ふりかけがいやってなに笑

 ふりかけってすぐなくなるじゃん

 お茶碗1杯分で袋に入ってるからね

 ふりかけなくなってほしくない

 1袋に3杯分入ってたら使い道困るでしょ

 余ったら冷蔵庫にしまったら

 そういうの忘れちゃうからさ

 忘れちゃうんだ

 忘れるでしょ、俺の冷蔵庫、わさびとかしょうゆとか山のように入ってるもん

 いつか捨てる?

 そうだねー偶然気づいて見つけたら

 じゃあ今度ふりかけ持ってく

 たすかるー!

 サイトウからの返信を見たあとわたしはスマホをベッドの上に放り投げて、あの人の手紙を小さく小さくちぎって捨てた。




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