日記

うろ覚えでバチ当たりな話なのだけれど、16歳の初詣で「18歳までに必ず死なせてください」とお願いした。それは叶わなかったし、指定した年齢は18歳だった気もするし20歳だった気もする。ただ、とにかく叶わなかったのでそれ以来神頼みはほとんど信じていない。そのことを最近何度も思い出す。18歳だったかな、20歳だったかな、あやふやになっているということはその出来事が自分から少し離れているからだと思っている。が、いったんは死んだ身として生きていることは多い。なにかを決めるとき、どうせ18歳で一度失った命だからと、大胆に決められる。いまこの世界を見ていられるだけで、それだけでずいぶんな奇跡だと思う。いま僕から見えている世界はぜんぶ自分が死んだ後の世界のように感じている。もし明日死んでも後悔はないと思う。一度死んでいる命が次にいつ終わっても、それはずいぶん長いアディショナルタイムだった、というだけで、本来はもうとっくに終わっているはずだったからだ。死んだ人がもし生きていたら、と想像するならそれは僕のことだと思う。病気とか事故とか自殺とか、若い人が亡くなったりして、もっといろんなことができたはずなのにね、と言う人がいたら、それは僕だ。こんなふうに思って生きている人がもし他にいるとしたらこっそり教えてほしいなと思う。きっとどこかでそうやって生きているのだろうけれど、たぶん会うことはないし、たとえば目の前に生きている人が一度死んだつもりで生きているかなんて、分からないし聞こうとも思わない。こんなふうになってくると自分が死にたいかどうかというのは直接的な意味が薄まってくる。一度真面目に死ぬことを志して失敗しているので「いや、でも実際死ねないからな」と思える。とにかく面倒なのだ。死ぬために考えることはひととおり考えた。もう十分だし、一度死んでるしな、と思う。でも湧いてくる「死にたさ」みたいなのは厄介な感情なので、それについてはお金で解決する。多少お金がかかったとしてもおもしろそうなことを先の予定として立てておくと「死にたさ」は薄まる。とりあえず薄めておいて、あとはゆっくり休む。食べて、寝て、運動して、会いたい人に会って、会いたくない人にはなるべく会わない。こうやっていると回復してくる。いまのところこれでなんとかなっている。やっていて楽しいこととか、おもしろいことって、それをやらないと生きてる意味がないとかじゃなくて、たぶん死ぬ。二度目に死ぬときは、なんにも楽しめなくなったときなんだろうなーとぼんやり思うが、そういうケアは抜かりなくやる。怠ると死にたさが出てくるので分かりやすいし、最近その死にたさへの感度が上がってきた気がする。その気配が見えてくるだけで、休もう、って思える。死にたくなってからでは遅い。死にたさでは死ねないと分かっているので、これはなんというか、口内炎みたいなものかなぁ。スポーツとかでも、ちゃんとケアしてあげないと故障とかするみたいに。故障する前にケアしてあげないと、ひどくなってからだと回復も面倒だから、その前にやる。「死にたい」ってそんなに特別な欲求ではないという感覚があって、それはもう長いことその辺にあちこち転がってゆらゆらしてるからなんだろうけど、たぶんそうじゃない人はびっくりするんだと思う。一度死んでるって言ってもよく分からないだろうし。これはなんというか、自分の肉体は自分にしかないようなもので、肩こりを誰かが肩代わりできないようなもので、死にたさに手を差し伸べられたところであんまり意味はない。明け渡せないものは渡しようがない。まぁ、しいていえば、その人にとっておもしろいと思えるような予定を作ってあげる、ということはなにかの役には立つかもしれない。とはいえ、その人の価値観が分からない人がやると全然意味ないし、というか、本人がおもしろいものを選ばなかったら意味ない気がする。与えられる、ということが。死ぬ以外の選択肢を自分で選び取ることに意味があるのであって。話がちょっと長くなってしまったけれど、自分が死んだあとの世界をずっと見ているうちにどんどんおもしろいことができているので、それをゆっくり続けられるようにほどほどにやりたいのだが、それに合わせて忙しさも増してきてしまって少しだけ死にたさが顔を出してきた。無理はしないようにしなくては。

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