日記

人生に何度か絶望している。人間、生きていれば人生に絶望することくらい、何度となくあると思う。最近、思う言葉の中に「生きてみなければ分からない」というものがある。どういう人生になるかなんて、生きてみた先にしかない。当たり前体操。

嬉しいとき「もう死んでもいいわ」とは思わなくて「生きててよかった」と思う。もう死んでもいいなんて思ったところで人生はそう簡単に閉じない。人生はハッピーエンドしない。かといってバッドエンドもしない。何度か人生に絶望するとそういうことが分かってしまって、喜びに死が紛れ込まない。

嫌々行った初詣で余命をお願いしたことがある。お願いした余命はずいぶん前に過ぎたから、そのとき「やっぱり神様はいないんだな」と思った。それからはボーナストラックだと思って生きている節がある。あの日お願いした余命以降の人生は本来存在しなかった人生なのだ。

さまざま決断するときに、それがかなり役立っていて、思い切りが必要な決断のときは特にそうで「まぁどうせ死んでたはずの人生だからな」と思って決断できる。また、これを決断しないと死んでしまうかもしれないと思ったとき、生きていけそうなほうを選べる。我慢して死んだ先に人生はない。逃げ延びて生きた先にしか人生はない。

不思議なもので、生きていけば生きているほど予想外の人生になっている。何度も何度も、あのとき人生に絶望していた自分に知らせたくなる。しかし人生に絶望しているときほど「生きていればいいこともある」なんて言葉は絶対に刺さらない。あり得ない。絶望しているときほど意固地になっている。

それでも生きてみようと思うための指針はやはり「生きてみなければ分からない」僕にとってはこれに尽きる。人生に絶望しかないなんて、生きてみなきゃ分かんないじゃん。未来の不確定さを逆手に取っている。しかし人生に絶望しているときは未来の不確定さに嫌気が差しているときでもある。サイコロをぜんぶ振り終わるまで、振り続けよう。そんな感覚。

15年前の僕には分からないだろうが、今日は盛岡にいる。分かるわけがない。論理が飛躍し過ぎている。しかし15年後、お前は確実に盛岡へ行く。東京でホームレスでもなんでもいいから生きていこうと思っていたお前はなぜか月に1度盛岡へ行くときが来る。

東京で、ホームレスでもなんでもいいからその身ひとつで生きてみようと思ったけれど「やっぱり書いて生きていたい」と思ったとき、家に帰ると決めた。上野のインターネットカフェで文章を書きながら、そう思った。

それは6月のことで、そういうこともあって6月はちょっと特別な月だと思っている。自分の命日が6月にあるみたいな感覚かもしれない。

死ぬのは少しも嫌ではない。死ぬのは怖くないけれど、死なない程度の大怪我は怖い。大怪我で生きているほうが死ぬよりよっぽど怖い。だから、どうしようもなく大きな不安があると、人生に絶望しそうになる。それが原因で死ななければ死なないほど怖くて絶望する。

いろんなものが怖いのだと、いまになってようやく分かってきた。不安なことをひとつひとつきちんと怖がっている。あっという間に恐ろしくなって、よくないほうの人生を頭の中で描いて真面目に絶望する。

なんかこれ書いてたら観たかった世界ふしぎ発見が始まったらここでやめる。あーなんか今日は生きててよかったな〜。

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