日記・東北へ続く同じ道の上で生きている心地がした

地元の駅が隠れた自殺の名所で、もうずっと前のことだけれど東北のほうから来たらしい女の子が死んだ。

盛岡に来てから時々その出来事を思い出していた。本当にずっと前のことだ。

しかしわざわざ、東北から電車を乗り継いで来たらしいのだ。亡くなった人にとって見知らぬ駅だったのか、何度か使ったことのある駅だったのか、それは分からないが、少なくとも住む場所とは違う景色が広がっていたはずだった。

僕は死ぬために盛岡に来たわけではないが、盛岡に来ると生きている心地がする。生きている実感がする。生きていてよかったとどこかで思う。

僕の住む街は、もうずっと前に亡くなったその人にはどんなふうに見えたんだろう。せっかく死ぬのなら、近くを歩いて回ってくれたんだろうか。そんなことはないか。

死んでしまった人の分まで生きる、みたいな、絶対にイコールにならない足し算の人生をするつもりはないけれど、誰かが死ぬためにたどった道のりを僕は繰り返し往復して、そのたびに生きている実感を覚えているというのは、なんだか不思議で、ただ思えば、目的は違っても同じ道を通るのは当然といえば当然で。

今朝の盛岡は昨晩から降り続けた雪が積もっていた。朝早く目覚め散歩に出る。行き先は違っても同じ道を通る人が既に通った雪道の、新雪が踏み締められたところを選んで歩く。

日本では、というか日本に限らずとも、日々多くの人が自死を選ぶ。その足跡からはどれが自死を選んだ人のものか分からない。

幸い、僕の足跡はその目的のものではない。死んでしまうくらいなら、盛岡でもどこでもいいが、まだ生きている人の足跡をたどって街を歩いて見て回ったらいい。そんなふうに思う。


もしよろしければサポートお願いいたします。