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■龍馬が語る『龍馬百話』~第三章「勝海舟との出会い②」

前回に引き続き、龍馬が語る『龍馬百話』の第三章「勝海舟との出会い」です。第26話「日本をせんたく」から。

【第26話 日本をせんたく】

この頃私は、越前福井藩の松平春嶽公から、海軍塾費用として5千両の借用を果たして、ますます頼りにされているところだった。しかしそんな折、攘夷を決行した長州藩が外国船と戦っている最中、あろうことか、傷ついた外国船を幕府が横浜で修理していることを知った。

何たることだろう。この事実が、私に幕府への憤りを生じさせ、そして「日本を今一度せんたく」しなければ、と決意をさせたのだ。立て続けに発信した乙女姉さんへの手紙には、そう綴っている。私の日本のせんたくは、ここから薩長同盟、大政奉還、新政府綱領八策へと続いていくことになる。

【第27話 大久保一翁】

海軍操練所の仕事が軌道に乗った頃、私は勝先生の使者として、京阪の情勢を伝えるために、大久保一翁公先生を訪問している。その時一翁先生は、初対面の私に大政奉還論を語ってくれて、私は手を打たんばかりに納得したものだ。

「大道解すべき人」と私のことを見抜いてくれたらしい。私も後に「天下之人物」として、勝先生や西郷さんたちとともに一翁先生を上げ、手紙に書き残している。

【第28話 蝦夷地開拓】

私は勝先生に、蝦夷地開拓計画のことを話したことがある。「京にいる血気盛んな若者たちを、蝦夷地に連れていく。日本人同志で争って無駄な血を流すのではなく、ロシアから蝦夷地を守りそして開拓もする。これは、まさに一石二鳥の策です」と。

先生も喜んでくれて、黒龍丸という船で行こうとしていたが、心配していた争いが京の池田屋で起こってしまい、この計画は頓挫してしまった。おまけに海軍操練所も閉鎖になって、先生とも別れ別れになってしまう。

でも私は、諦めなかった。その後も、亀山社中というカンパニーをつくって船を買って、蝦夷地をずっと目指し続けた。「蝦夷地に新しい国を開く」という想いは死ぬまで変わらなかった。

【第29話 北添佶磨】

先の池田屋事件で、私は実に惜しい仲間を失ってしまった。同郷の北添佶磨という男だ。彼は幼少の頃から神童と呼ばれ、剣の腕も一流だった。彼も国防について思うところがあって、実際に蝦夷地の探索をしている。探索を終えた佶磨は、蝦夷地の開拓防衛は緊急課題である、と私たちに告げた。

だから私も、勝先生と協力して蝦夷地開拓計画を進めてきたのだが…。池田屋では不意打ちを食らい、近藤勇に斬られたとも聞く。自慢の剣も抜くこともできず、さぞ無念であったろうと思う。

【第30話 お龍との恋】

乙女姉さんへの手紙に、お龍のことを書いた。彼女の生い立ちや性格、それに武勇伝も紹介した。その武勇伝とは、騙されて女郎に売られた妹を、悪者たちの手から奪回したというものだ。また彼女は、月琴を弾く面白い女であり、乙女姉にも会いたがっていること、そして何より名を「龍」といい自分と似ていること、なども書いた。

そんなお龍に、着物か帯をあげたいから送ってほしい、とお願いもした。お龍への想いを、乙女姉さんには何とかわかってほしかった…。お龍のことを、大変な美人だが善にも悪にもなるような女、と評した者もいるが、私にとっては、運命的な結びつきを感じる女であったということだ。

【第31話 山内容堂】

私は容堂公との面識はない。私が土佐脱藩中の文久3年1月、勝先生が伊豆の下田に寄港した際、偶然容堂公も下田の宝福寺に居合わせた。勝先生は容堂公を訪ね、私の脱藩罪赦免を訴えてくれたのだ。そのおかげで私は、京都藩邸での7日間の謹慎で、御赦免となったわけだ。

その4年後、後藤象二郎が大政奉還論を容堂公に進言に行き、それが土佐藩の藩論となった。容堂公は手を叩いて喜んだというが、後藤と共に私も大政奉還実現のために画策していたことを、彼は知っていたかどうか…。

【第32話 冬の時代】

文久3年8月に起こった政変によって、公武合体の勢力が盛り返した。その波は土佐藩にも及んで、土佐勤王党の弾圧が始まり、そしてついに、海軍操練所と海軍塾にいる我々土佐藩士にも、帰国命令がくるに至ってしまった。

勝先生はすぐに抗議文を出してくれたが、土佐藩はそれを突っぱねたから、それを受けて我々も帰国命令を断り、再び脱藩浪人となったのだ。しかしその後、勝先生が江戸召喚を命じられて、海軍操練所が閉鎖になってしまう。

我々脱藩者は行き場を失ってしまうところだったが、勝先生の計らいによって、小松帯刀や西郷隆盛らの庇護を受け薩摩屋敷に潜むことができた。本当に厳しい時代だったが、先生の計らいには本当に感謝してもしきれない。

(「勝海舟との出会い」おわり)