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■龍馬が語る『龍馬百話』~第十章「その後の話③」~

今回がいよいよ最終回、第十章「その後の話③」です。第96話「昭憲皇太后の夢」から。

【第96話 昭憲皇太后の夢】

日露戦争勃発が目の前に迫った明治37年2月6日、私は昭憲皇太后の夢枕に立った。「私は坂本龍馬と申します。この度の海戦、ご心配には及びません。必ず日本の勝利でございます。私も力及ばずながら、日本海軍を守護いたします。ご安心ください」と申し上げた。

この話は田中顕助に伝わり、約2か月後、時事新報が「葉山の御夢」と題して報道した。この一件により、忘れられていた私の名が復活することになったのだ。

【第97話 陸奥宗光】

陸奥陽之助は紀州脱藩の士で、彼と私は神戸海軍塾から亀山社中、海援隊と行動をともにした。海援隊では、私の片腕としてその才能を存分に発揮してくれたから、「海援隊の中で、刀を取り上げられても食うに困らないのは、私と陸奥だけだ」と言っていたものだ。

私の死後、天満屋襲撃を主導し、明治政府内でも、薩長閥の中で異色でありながら敏腕を発揮した陸奥だが、そのハイライトはやはり、外務大臣として不平等条約の改正を成し遂げたことだろう。最も濃く私の夢と未来を継いだ異色の人物だった。

【第98話 宮地彦三郎】

海援隊の同志に宮地彦三郎という男がいた。彼はあの11月15日当日、近江屋に私を訪ねていた。その日に私が殺されたことを知った彼は、何を思ったのだろうか。翌月の天満屋襲撃に、彼も参加激闘している。

そしてまた、彼が残した手紙により、私の葬儀が営まれたのが11月17日夜であったことが判明することになった。私亡き後は、長岡謙吉率いる新海援隊に参加、瀬戸内地方で活躍したようだ。

【第99話 龍馬余栄】

東京の木村家から見つかった私の肖像画写真。写真の裏面には、旧幕臣木村才蔵の名前がある。木村は後に、旧幕府軍として戊辰戦争に参戦。明治になって日清戦争にも従軍している。そしてこの木村に、肖像画写真を贈ったのが、土佐人の岡崎生三だ。写真には岡崎の名前もある。

土佐勤王党員でもあった岡崎は、後に新政府軍として戊辰戦争に参戦。明治になってからは、日清・日露戦争に参加している。両者は、日清戦争の頃知り合ったと思われるが、戊辰戦争では敵対していた二人が、私を縁にして知己を結んだことは感慨深い。

【第100話 龍馬が生きていたら】

もし私が、あと10年明治を生きていたら、とよく言われるようだ。明治新政府に慶喜公を送り込んだかもしれない、戊辰戦争や西南戦争は防げたかもしれない、などと言われているみたいだが、それはわからない。人は時勢の児で、生まれついた時勢と共に生きるからだ。

私は、幕末の風雲児などと呼ばれることもあるが、もし10年早く生まれていたら、また10年遅く生まれていたら、そう呼ばれることもなかっただろう。しかし私は、自分によく似合った時勢に生まれ、精いっぱい生きた。幕末の動乱という歴史を、目いっぱい生きたことは間違いない。

(おわり)