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■龍馬と義経伝説

お龍さんの回想(千里駒後日譚)に次のような一文がある。

「・・・或る日望月さん(望月亀弥太)らが白の陣幕を造って来ましたから、戦争も無いのに幕を造ってどうすると聞けば、北海道は義経を尊ぶから此の幕へ笹龍桐(ささりんどう)の紋を染め抜ひて持って行くと云って居りました。・・・」

この一文の前には、龍馬が北海道を海援隊で開拓すると言っていた、とある。つまり北海道へ渡るために集めていた情報の中に、北海道は義経を尊ぶ、というものがあったのだろう。笹龍桐とは源氏を代表する紋である。

これを読んで思ったのは、各地に残る義経伝説のことだ。函館にも、北海道最古にして義経の里、と呼ばれる船魂神社が現存する。悲運の死を遂げた英雄には、実は追討の手を逃れ、生き延びていたという伝説が残るものだ。自分が聞いたことのある義経伝説は、大陸に渡ったというもの。

龍馬と義経―。ともに人気のある歴史上の人物、そして、ともに北海道に縁がある。無事であれば、龍馬が足を踏み入れたであろう函館に、船魂神社があるのも何かの縁だ。そこで、気になる義経伝説を少し調べてみることにした。


文治年間、頼朝の追討がいよいよ厳しくなり、義経にとって奥州平泉の藤原泰衡の館も安住の地ではなくなっていた。

「蝦夷ヶ島(北海道)に渡ろう。」

そう決意した義経は、ようやく津軽半島までやって来るが、海が荒れて、渡ることができない。そこで義経は、三日三晩、自ら持っていた観世音菩薩像に祈り続けると、

「三匹の龍馬を与えるから、その馬で渡れ。」

とのお告げを受けた。海辺を見るとその通り、三匹の龍馬がおり、義経は蝦夷に向かうことができた。

義経が三匹の龍馬を見つけ、これを繋いだところが三馬屋(みんまや)と名付けられ、現在は三厩(みんまや)という地名となっている。

この義経の蝦夷渡海から500年後、この地(三厩)を訪れたのが僧・円空。彼は、義経が持っていた観世音菩薩像を発見し、その像を安置する御堂を建てたという。それが現在、「龍馬山義経寺」として残っている!ただし、読み方は「りゅうばさん ぎけいじ」のようだ。

こんなかたちでも、龍馬と義経が繋がった・・・と思いたい。

義経が津軽海峡の半ば過ぎると、突如として暴風雨に遭遇してしまう。

そこで義経は、船魂明神に祈願したところ、風雨はおさまり、無事函館に上陸することができた。そしてこの地に、船魂の祠(ほこら)があると聞いて早速参詣し、感謝したのであるが、その時、

「何だかとても喉が渇いた。どこかに、清水はないものか。」

そう感じた義経が探し回っていると、岩の上に一人の童子が現れた。すると、その童子が無言で指差すあたりから、こんこんと清水が湧き出ているではないか。

義経は、それで渇きを癒すことができた。

後にその清水は、船魂明神の洗濯水、と言われたが、今はその痕跡は残念ながら見当たらない。しかし童子が現れた岩は、童子岩として今も船魂神社に残っている。


もうひとつ、全く別の話だが、次のような記述も見つけた。

船見町に建つ山上大神宮の東北の向かい側に、大石の松(常盤の松)と言われた樹齢数百年の大木があった。これが、義経が腰かけた松だったという。残念ながら、明治12年の大火で焼失し、今はない。

ここに出てくる、山上大神宮というのが、龍馬と関わりがある。龍馬の再従兄弟(はとこ)で、同い年の澤辺琢磨が婿養子として迎えられ、8代宮司となった神社である。

(おわり)