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■龍馬が語る『龍馬百話』~第十章「その後の話②」~

今回は第十章「その後の話②」です。第91話「佐柳高次」から。

【第91話 佐柳高次】

「坂本龍馬神宮」と書いた掛け軸を作ったのが、佐柳高次だ。佐柳とは、勝先生を通じて知り合って以来、神戸海軍塾から海援隊と行動をともにした仲だ。ワイルウェフ号遭難の時は辛うじて生き残り、いろは丸事件の時はめざましい活躍をしてくれた。

私の死後、彼は新政府軍の陽春丸に乗って、箱館戦争にも参戦している。晩年は故郷の佐柳島に戻り、「坂本龍馬神宮」の掛け軸を掲げて毎朝夕、元海援隊の同志を供養礼拝したという。

【第92話 坂本直寛と北海道(上)】

私が果たせなかった蝦夷地開拓の夢を、実際に北海道へと渡り、実践したのが甥の坂本直寛だ。彼は私の兄権平の養子となり坂本家を継いだ。そして、立志学舎に学び自由民権運動に身を投じていく。

直寛が目指したのは、弁論と筆によって明治藩閥政府を改革することだった。彼は、人民主権を具体化した「日本憲法見込案」を執筆したが、それはまさに私の理想実現を切望するものであるかのようだ。

【第93話 坂本直寛と北海道(下)】

坂本直寛の兄は、私が長く行動をともにした高松太郎である。太郎は私の死後、明治新政府の役人として函館に赴任していて、蝦夷地開発の建白書を提出している。自由民権運動に身を置いた直寛は、太郎に遅れること約30年、一族を引き連れて北海道に渡った。

直寛は「小弟は祈りと熟考とによって、断然北海の拓殖を決意」と同志に告げていたという。彼らによって、私が願った北海道は開拓され、その子孫へと受け継がれている。

【第94話 藩論】

藩論とは、私の意を受けた長岡謙吉が筆記し、海援隊より出版されたものだ。人民主義を建て前として、藩制改革や選挙制度のあり方まで記している。この藩論については後年、大佛次郎がこう述べている。

「龍馬の外に、これだけ自由奔放な政治論を吐く者はなかったろうし、封建制度の欠陥をえぐり、立憲の精神を説いた気迫は、龍馬を除いて同時代の他の人間には考えられぬことであった。藩論は彼が書いたものでなくとも、彼が首肯し、やがて公然と主張するものであったろう。」

【第95話 英将秘訣】

大正時代になってから、私の語録と伝えられる『英将秘訣』(別名:軍中龍馬奔走録)が刊行されている。その内容について、佐々木三四郎は「いかにも龍馬が言いそうなことだ」を言っていたらしい。『この世に生まれるのは何かことを成すためだ。人真似をするためではない』『この世に生きる人々に上下などない。ただ自分を最上と思うことだけだ』。

(「その後の話」つづく)