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■龍馬が語る『龍馬百話』~第五章「亀山社中」~

今回から第五章「亀山社中」です。前回から多少時系列は前後しますが、亀山社中にまつわるお話を。第43話「新婚旅行」から。

【第43話 新婚旅行】

寺田屋で遭難してから、西郷さんたちの薦めもあり、療養も兼ねて薩摩へ行くことになった、お龍も一緒に。私は、この時の様子を手紙に書いて、乙女姉さんに送った。お龍とともにのんびり過ごした約1か月、存分に楽しんだということが、ちゃんと伝わっただろうか。あれが後に、日本の新婚旅行第一号と呼ばれるとは、うれしいことだ。

【第44話 死生観】

風雲急を告げるなか、寺田屋で遭難したことも重なり、私の手紙に死生観のようなものが見え始める。権平兄さんへの手紙では、死ぬ時も手許におきたいので、家伝の刀が欲しいと願い出たし、乙女姉さんへの手紙には、人は短気を出して死ぬものではないし、殺すものでもない、と綴っている。この2通は、父・八平の命日に書いたものだ。

また春猪には、人の命は露のようにはかなく、わからないものだ。お前さんは先々無事に暮らせよ、と言い聞かせてもいる。私も日々、死と隣り合わせの状況で奔走していた、ということを感じていたのだろうか。

【第45話 ワイルウェフ号】

薩摩の支援により、亀山社中が初めて手に入れた船・ワイルウェフ号。その船が、命名式を行なうために、薩摩にやって来ることになった。かねてより薩摩が長州に依頼していた、兵糧米500俵を積んだユニオン号とともに。

首を長くして待っていたのだが、着いたのはユニオン号のみ。ワイルウェフ号は、暴風雨に見舞われ遭難してしまったのだ。その上、池内蔵太ら大事な仲間12名も失ってしまうとは、痛恨の極みだった。幾多の戦場をくぐり抜けてきた内蔵太の無念を思う。

さて兵糧米500俵だが、西郷さんの配慮で薩摩がこれを辞退した。だが桂さんも、一度贈ったものを受け取るとは・・・と渋い顔だ。ならば、我が亀山社中に任せてもらえまいか、と申し出て一件落着となった。これは僅かな朗報だった。

【第46話 池内蔵太】

私は内蔵太のことを、本当の弟のように可愛がっていた。お互いに脱藩の身で、約3年ぶりに偶然再会したことを手紙に書いている。喜び、笑い合い、天下国家のことを語り合い、そして、つまらぬことで死ぬまいと、固く誓い合ったのだ。

その後、亀山社中で行動をともにすることになったのだが、ワイルウェフ号の海難事故で内蔵太は海に没してしまう。その死を悼んで、中通島に墓碑の建立をお願いした次第だ。

【第47話 下関海戦絵図】

第二次長州征伐における下関海戦には、私も長州側として参戦した。亀山社中の同志である菅野覚兵衛たちとユニオン号(乙丑丸)を駆って、高杉さんの丙寅丸とともに小倉の門司港を攻撃、そしてこの海戦を勝利に導いた。それば私にとって初めての実戦で興奮した経験であり、権平兄さん宛ての手紙に、その時の様子を絵も交えて詳しく知らせたりしたものだ。

【第48話 高杉晋作】

高杉さんとの友情には感謝している。薩長連合を成功させるため、藩命を引き出して渋る桂さんを上京させたし、その桂さんを追って上京した私には漢詩を認めた扇をくれた。そして、寺田屋で遭難した時も、彼からもらったピストルが火を噴いた。

また、高杉さんの下関海戦での勇敢な指揮ぶりは見事だった。権平兄さんの手紙にもその様子を書いたし、その手紙に書いた通り高杉さんは、勝先生や桂さんと同じく、天下の人物といえる人だ。

【第49話 馬関商社】

長州の戦火がおさまった頃、私は下関に馬関商社(薩長合併商社)の設立を考えていて、実際に薩摩の五代才助、長州の広沢兵助とも話し合いをしていた。五代も広沢も賛同してくれて、商社示談箇条書を3人の間で交わすまでになった。

下関海峡は軍事的にも経済的にも、最も枢要な位置を占めていたから、薩長と協力して亀山社中が絡んで新商社を創れば、薩摩も長州も、そして我が社中も多大な経済的利益を得られるはずだったのだが・・・。残念ながら、この計画は実現しなかった。

【第50話 自然堂と伊藤助太夫】

脱藩者だった私が、全国各地で活動できたのは、それぞれの場所に応援してくれる人たちがいたからだ。長州下関では、物心両面から伊藤助太夫家にとても世話になった。助太夫氏との出会いは、下関のとある旅籠屋。その時の私のことを、「顔に七陽の星が降っている人」と評してくれていたようだ。

お龍もつれてきて、借りた一室を「自然堂」と名付け、二人で身を寄せた憩いの場であった。その頃私が詠った歌が、助太夫夫人からその孫へと言い伝えられていたとは驚いた。

(つづく)