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今夜、すべての酒場で

今は亡き奇才・中島らもの名作「今夜、すべてのバーで」に自分が初めて触れたのは、高校生になったばかりの頃だった。

多くの読者の心を未だに掴んでいるその作品で展開されるバーでの話は、大人の世界にまだ憧れを持っていた多感な時期の自分にとって、物凄く刺激的であり、また憧れにも似た感情を持ったように思う。例えそれが”アル中”をテーマにした話で、そして作者である中島らもの実体験を元にした作品だったとしても。

このように憧れていたバーに入り浸るようになったのは、地元・沖縄から出てきて大学生活を送るようになってから。専らゼミの仲間や教授たちと共に、大学があった千葉の柏にあるファミレスのドリンクバー(アルコールOK)で、簡単なカクテルを自作しては適度に酔っぱらっては、行きつけとなった柏駅近くのバーでいつも飲んでいたっけ。
文学部っぽく文学談義に花を咲かせたり、お茶目な教授が我々学生の恋愛話に首を突っ込んだり。何だかんだ今思い出してもとても贅沢な時間だったように思う。
そんな時間を過ごした教授や同級生たちとは、今ではFacebookで繋がっているくらいで、もう何年も会っていないのだけど。

沖縄から出てきた当初に羽目を外し過ぎたことが災いし、同級生たちから1年遅れでの社会人となった頃には、柏から東京のど真ん中である新宿区に引っ越し、職場が新宿ということをいいことに、歌舞伎町でよく飲むようになった。飲みが大好きな上司たちの影響を受け、色んなお店に連れて行ってもらったことを今でも覚えている。
時には出張がてら、福岡の中州の高級キャバクラでお客さんを接待し、社会人1年目で10万円以上の飲み代を何故か払わされたっけ。あの当時は「社会人ってなんて厳しいんだ!」と同席したのに何故か会計を押し付けた先輩を悪魔のように思ったけれど、後から経費精算が出来たので、良い笑い話の一つとなった。

それから2年後には結婚し、8年も結婚生活を送ったのだけれど、「何故相手と結婚したのか?」と今問われれば、共に飲むのが好きで、一緒に飲んでいる時間が心地良かったからだと答えるだろう。二人で色んなお店に飲みに行ったし、自宅でもお互いが作る料理で晩酌を楽しんだり。
ほぼ毎日乾杯していたので、残念ながら色々あって離婚した今でも、共に乾杯した数としては歴代1位である。まあその記録はそのうち塗り替えたいところだ。

そして5年前に独り身に戻った後は、これまで出来なかったことをしようという自分の中での決意もあって、毎晩色んな人を誘ったり、色んなイベントに参加しては、沢山の人と乾杯をしてきた。そして仕事で全国津々浦々に出張をしては、その土地土地の飲み屋で飲んで楽しんできた。そりゃあもう贅沢な時間だったといえる。
更にここ2~3年は更に自由に楽しむようになり、連休の度に日本全国へふらりと旅に出ては、その街の”酒場”でハシゴ酒をして、何故だか飲み仲間が行く先々で増えた。そのうちの何人かは今でもFacebookなどで繋がっているのだから不思議だ。だって名前も職業も年齢も、SNSで繋がって初めて知るのだから。中には顔すらそれまで思い出せなかったケースもあるのだから、呑兵衛はしょうがない生き物である・・・。

そう、若かりし頃に憧れていた「バー」は、自分の中ではいつの間にか「酒場の一つ」として認識されるようになり、老舗の居酒屋やユニークな飲み屋、名物の大将やマスターが居るお店など、その土地土地で自分に合ったお店を探す「酒場巡り」にすっかり変わっていったのだ。そしてそこには色々な出会いがあった。

ここでせっかくなので、日本の色んな酒場で出会った飲み仲間のことを書いてみよう。

三年前の年末年始は初めての四国一周旅行をしていたのだけれど、元旦の夜を過ごしたのが愛媛県今治市。元旦ということもあっていきたいと思っていたお店が悉く正月休みで、しょうがなくふらっと入った居酒屋で隣に座った地元のトラック運転手さん。色んな話をさせてもらって、そして行きつけというバーにご一緒し、そのおっちゃんが持参したぷりっぷりの刺身をバーで食べるという不思議な体験をした。
とても楽しい夜を過ごし、翌日はしまなみ海道を見に行く予定だと話すと、「だったらオレのトラックでそこまで乗せてってやるよ!」と有りがたい申し出をしてくれて、「是非!」と頼んで電話番号交換をしたのだけれど、翌朝約束の時間になっても電話は鳴らず、仕方なく一人で歩いて向かったのだった。
まあ飲んだ時にする約束を破ったことに対して、お世話になろうとした方が責任を問うのは野暮というものだよね。それが呑兵衛っていうもの。
そのおっちゃんとはそれ以来会っていないけれど、酔っぱらいながらもしっかりと電話のメモリ登録をしていた名前と電話番号は今でも残っている。

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続いて、一昨年から北九州への出張の度に顔を出していたのが、創業30年ほどのオーセンティックバー。個人的に何だかとっても居心地が良く、一人で何度も顔を出すたびに、マスター達に顔を覚えて貰って「いらっしゃい」と言ってもらえるのが嬉しかったっけ。父母娘の三人で家族経営をするオーセンティックバーって、面白いですよね。お店の内装も外装もとてもこだわっていてクールなのに、しっかり話してみるとアットホームというこのギャップが好きで、北九州の夜はいつもここだった。その後にお店を畳んでマスター一人だけで切り盛りできる小さなバーを開いたと、案内はがきで知ったのだけれど、結局そこから一度も顔を出せていないのが心残りだ。


前々回の年末年始は北陸を一週間旅したのだけれど、そこで思い出すのが福井の敦賀市でのこと。敦賀駅のすぐそばにあるおでんが自慢の酒場に立ち寄ると、その年の初日の営業ということもあって常連さんだけの夜だったようで、それでも恐れ知らずに突撃して「一人で入れませんか?」と大将に頼んで入れて貰った。
ゆっくりと自分も飲みながら常連さんの相手をする大将に対して、常連客は「急がなくていいから、こっちは次おでんの盛り合わせをお願いね!」なんて何とも優しい注文をする。常連さんばかりでお店によっては肩身が狭い思いをするはずなのに、ここは初見の客である自分でさえほっこりとしてしまう。何とも優しい空間。
隣に座った大阪在住の夫婦は、なんと毎年年始はこのお店で飲むことに決めていて、いつも数時間かけては敦賀の街に降り立っては、二人で大将のおでんをつまんでいるという。「それが夫婦の幸せなんだよね」と、こっちが惚気てしまうような笑顔で旦那さんが話してくれた。うん、今度はそういう夫婦を目指そう、と強く心に決めた瞬間だった。


昨年のゴールデンウィークに南九州を一週間旅した時にも色々な街で飲んだけれど、一番印象に残っているのは鹿児島市の飲み屋街である「名山堀」にあった老舗の酒場。ママが長年仕切っているそのお店は、カウンターが6席と4人掛けのテーブルが1席のみ。訪れた時はほぼ満席だったのだけれど、何とか滑り込んで飲み始めては、ママや他のお客さんと楽しく飲んだことを覚えている。
何だかんだ意気投合した隣席のおっちゃん。その後に二軒目、三軒目と共に飲んだのだけれど、最後に別れる段になっての名刺交換で、あの薩摩家の末裔だということを知った衝撃。これは何という贅沢な鹿児島の夜だ、と感動したのを覚えている。


昨年の夏休みには、被災地巡りということで宮城県から三陸沖をずっと北上していて、そして辿り着いたのが青森県八戸市。八戸の飲み屋街が最高で、美味しいお店ばかりだったのだけれど、その中でも印象的だったのが二軒目でお邪魔した八戸の名物バーである洋酒喫茶。外観から怪しさ満点(誉め言葉)のそのお店は創業60年以上。
二代目マスターが飄々としていて駄洒落交じりのオリジナルカクテルなどを楽しめるのだが、そこで出会ったのが「成人した息子と共に帰省し、初めて地元の行きつけのお店に連れてきた」という素敵な母親と初々しい息子の親子。何だかとっても微笑ましくて、そして息子を自分の青春時代の行きつけのバーに連れてくるお母さんがとても粋で、偶然隣の席に座ったことで色々とお話しさせてもらったことで、理想の親子像を垣間見せて貰った気がする。


今年もコロナ禍になる前、今思えばギリギリのタイミングだったけれど、道東旅行では釧路の老舗酒場でも出会いがあった。
コの字の大きなカウンターで偶然隣になったのが、歳の差カップル。何だか喧嘩中のようで会話がなかなか続かず、その状況を持て余したのか、おじさんが自分に話しかけてくれたことから親交はスタート。話しているうちに彼女さんも機嫌を直したのか会話に入ってきてくれて、最後はお互いに注文した料理をお裾分けし合うまでに発展。二軒目もと一緒に連れ立ったものの、目当てのお店が満席で入れずにそこでお別れとなったけれど、後日自分が渡してあった名刺が縁でメールが届き、飲んでいた相手が某大学の教授だと知る。今ではFacebookで繋がっているけれど、「早くコロナが落ち着いたら、日本のどこかでまた飲みたいですね」と約束をしている。


その他にも、日本各地で色んな人に出会った。

最北の地である稚内にある酒場では、偶然にも隣に座った人が某県の職員の方で、毎年夏前には一人ツーリングで稚内のこのお店を訪れているという。これまた偶然にも、地元の同級生が某県に働いていて、共通の知り合いが居たということも知った。世間は狭いね~。

佐賀市で入った酒場は何故か韓国からの観光客で一杯。なんでも韓国で人気のあるブロガーさんが絶賛したようで、そこから予約が止まらないと話していた。そんな中一人でふらっと立ち寄った自分に色々と話しかけてくれて、そのうち店主の娘さんが沖縄の泡盛メーカーに嫁いだということを知り、沖縄出身の自分に親近感を持ってくれたのか、色々とサービスをしてくれたこともあった。

そんな自分が最も好んで飲みに行っているのが、地元沖縄の酒場。もう通って7~8年経つだろうか。沖縄に帰省して過ごす夜は必ずそこで最後に飲む、というのがマイルール。そんな自分を後輩として可愛がってくれているマスターは、来店の度に「お帰り~!」と声をかけてくれて、それがまたホッとする一言なんだな。常連さんとも顔見知りになり、自分のホームみたいな気持ちになる。離婚した時も慰めてくれたし、その後の恋愛相談にも色々乗ってくれたっけ。もちろん仕事や人生の悩みにも。

このコロナ禍においても、仕事で沖縄に帰ったときに顔を出したら大繁盛していた。「こういう時だからって常連さんがみんな来てくれてさ~」ととても嬉しそうに話してくれたのだけれど、恐らくこんな不安が募る日々になってしまい、みんな安心して飲める場所を探して行き着いたのがここなんだろうなと思ってしまう。
そう、みんなただただ楽しく、何も心配せずに飲みたいだけなのだ。酒場という雰囲気の中、知らない人や顔見知りの人がごちゃ混ぜになった空間で。


今回、noteで「また乾杯しよう」というテーマでの募集を見た時、「これは絶対に書かなければ」と思った。それは「得意分野だから良い作品を書いて評価されるのでは?」といった下心的な自尊心からというわけではなく(まあゼロではないけど)、恐らくこのコロナ禍において「乾杯する」ということをテーマで自分の考えをまとめるという行為自体が、自分にとって価値のあることなのだと感じたからだと思う。

今回振り返ったように、この事態になる前はほぼ毎週のように日本のどこかに出掛け、そして毎日のように色んな場所で色んな人達と乾杯をしては飲んでいた。だからこそこの半年は、どこにも旅行できず、それどころか近所のお店にすら満足に通えず、ほぼ毎晩家で一人晩酌の日々。一人ではさすがに乾杯は出来ず、当初は楽しんでいたはずのオンラインでの乾杯も、リアルな飲みの場には敵わないと知った今では、たまにしか顔を出さないようになってしまった。

もちろんお酒は好きだから、家で一人飲むのも嫌いではない。長年のネット民である自分にとってオンライン飲みも十分アリではある。だがそれでも、リアルな空間で向き合い、グラスを傾けて乾杯をする瞬間には敵わない。「乾杯!」と言ってグラスをぶつける、ただそれだけのことだったのに、今ではとても愛おしい。待ち遠しい。そしてその思いが募り過ぎて、過去の飲んでいる記憶が頭の中に浮かび上がってきてしまう。それこそこの原稿で触れたように。

日本各地で時間を共にした人たちは、果たしてこの半年どうしていたんだろうか。家で飲んでいるのか、はたまた気にせず飲みに出ているのか。
そして我々を受け入れ、出会いの場を提供してくれていた酒場はどうなっているのだろうか。近所の街の現状を踏まえるに、残念ながら閉店の決断をしたお店もあるだろう。その場合は帰り際に必ずしている「また来ますね」という店主との約束は守れないのかもしれない。

未曽有の状況の中での希望。それは、平和でのどかだったあの頃に出会い、共に飲んだ人たちとまた同じ店で飲む機会を作ること。幸いにも未だに繋がっている人たちが居るので、何組かは実現できるはずだ。
それが実現した暁には、沢山話をしたいと思う。この半年間、どういう思いで飲んだくれてきたのかを。これは一時間では足りまい。二時間、いや三時間? それを想像するのすらも楽しい。

そのように考えている呑兵衛は、たぶん日本中に居るはずだ。全く同じ思いで、この半年を過ごしているはずなのだから。乾杯がしたくてウズウズしているはずなのだから。
そしてその募った思いをお互いにぶちまけるために、呟くのだ。日本各地の、呑兵衛(酔っ払い)が集まる全ての酒場で。それぞれが満面の笑みを浮かべながらね。

「乾杯(スコール)!」

#また乾杯しよう

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