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死ぬなら春がいい

かまってちゃんのような題名になってしまったが、今死にたいわけではない。ただ、死ぬ瞬間はこうありたいという思いがあるので書いてみる。

暖かくて多幸感に溢れる春に死にたい

死ぬ瞬間を選べるならば、春がいいと思ってる。小学生の頃、学校の敷地内の道沿いに桜が咲き誇るなか、落ちてくる花びらを拾っている時に「春は暖かくて幸せだから、このまま幸せで満たされた気持ちを持ったままで死にたい」と思った。そこから20年程度経ったけど、いまも気持ちは変わらない。

春風は冬の寒さから解放されて、あたたかなお布団のような気持ち良さがある。寒く厳しい冬を超えてから、暖かくなった気候の中で咲き誇る花の美しさに、心癒される。暖かな気候の中で鮮やかな花を見ると、多幸感に溢れる。

死ぬ瞬間に「つらい、まだ生きたい」と思ってしまったら、死んでも死にきれないと思う。「色々あったけど、なんだかんだ楽しかったな!いまも暖かいし、花も綺麗だし、幸せだな」と思いたい。

何でこんなことを考えたかというと、何かのゲームか物語を通じて、死に場所を探す民族というものを知ったから。そこで「自分が納得した環境で死ぬ」という考え方に軽く衝撃を受けた。当時は生きることしか考えていなかったし、死はずっとずっと先にある、非現実的なイベント程度の認識でしかなかった。

そこから「私がこの民族だとしたら、死に場所はどこがいいんだろう?」とうっすら考えるようになった。そのあとに訪れた春に「これだ!」と直感的に答えを見つけた。

願はくは花の下にて春死なむ

自分と似たような考えの人いないかなぁ…と探してみたら、いた。西行(佐藤義清)という人が、晩年にある短歌を詠んでいる。

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

この短歌を読んで、意味がよく分からないながらも「これだ!この人と多分考えてること似てる気がする」と思った。この人は900年前くらいに亡くなってしまった人だから話ができなくて非常に残念だけど、この件についてお話ししてみたかったな。

春の暖かさのような多幸感に溢れるものに触れ続けたい

そんなわけで、春がすごく好きである。そのため、春の多幸感と似たような感覚を味わえる音楽を聴くとすぐにはまってしまう。ハウスミュージックとか、聴いててワクワクするような音の運びをする楽曲を作る人の曲とか。(個人的にはBebu SilvettiのSpring Rainという曲は、私が感じているのと同じような、春の多幸感を表現した曲なんじゃないかなぁ…と思っている。この曲はお酒飲んで聴くと最高。大好き)

あとは、どうしようもなく落ち込んだ時、「一刻も早く多幸感をチャージしたいな」と思うことがしばしばある。そうなるとお酒を飲んで、イヤホンを耳に刺し、好きな音楽を爆音で聴く遊びをする。お酒に依存している節があるけど、酔いが冷めて頭痛がするまでは最高に幸せな気持ちになる。不健全…。

春夏秋冬のある日本に暮らしているからこそ、ここまで春が好きになったと思う。ずっと春と同じ気候だったら、ここまで「春いいなぁ」と思わなかったと思う。日本人で良かったのかもしれない。

おわりに

春はとても暖かくて最高なので、はやく春が来て欲しい。当分生き続ける予定だけど、春が来るたびに「生きてて良かった」と想い続けるだろう。

春から初夏までの季節はすごく暖かいし、自然の色も鮮やかでみずみずしくなるから大好き。お野菜も美味しいし。花粉症は辛いけどどうにかしていくので、早く春が来ますように。

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