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前はnoteを開くとなにか書こう!と思えた。人に言いたかったけど言えないこと、気持ちの整理、色々あった。だけどいまnoteを開いてみても、書きたいことがないのでもう何も書けない。

劣等感も溶けてしまった。厳密にいうと心の底にうっすら淀んでいるけど、川の流れのなかで少しずつ澱がたまっていくようなもので慣れる。
自分をもっとよくしたいと思うこともない。自分がそこまで悪い状態ではなくて、少なくとも自分が選んだコミュニティの中では比較的まっとうに受け入れてもらっているので満足してしまった。
常に満足するよう、不快にならないよう、自分のためだけに薄いけど自分のホームと思えるような心の安全基地をつくってきた成果ともいえる。ただ、強烈な劣等感や嫉妬ゆえに「悔しいから変わってやる!」という気持ちもなくなってしまった。年齢を重ねたからだろうか。

人からバカにされると不快だけど、正直どうでもよくなってしまった。
自分自身にもう、あまり興味がないのかもしれない。
そして自分が特別でなくても生きることを許されるらしいということを実感してしまったので、心の底から何か人のつながりを渇望するということや、何者かになりたいという強烈な信仰心に近い憧れや、皆が憧れる要素でのマウンティングなどもなんら興味がなくなってしまった。

前まで接するのが苦手だと思っていた親戚たちも、少し癖のある取引先と思えばむしろやさしい。こちらは珍獣枠なので、親戚間で私が決裁者ポジションで何かすることもなく、とても気楽なものである。この状態で10代に戻れたら、暗黒時代と自分で表現した大学の頃を、もっと豊かに過ごせた気がする。あの頃のキャピキャピ感なども含めて元に戻れば、の話だが。


すごく生きやすくなった。
仕事も前よりそつなくこなせるようになった。
前みたいに孤独感で苦しまないよう、薄く広く自分が所属していると思える心の居場所づくりも功を奏して、常にうっすら機嫌よく良いループのなかで生活できている。

でも、「自分が本当にやりたいこと」という軸がすっかり消毒されて、中身がからっぽな感じがする。前はそれがすごく辛かったのに、麻痺したのか前ほど辛くなくなってしまった。「あなたは今なにがしたいですか?」「なにが好きですか?」と、自分に関する質問をされると困ってしまう。からっぽだから。自分のために好きを語ることがもうできない。仕事みたいに役割をもらえると、その役割に応じた思考はできる。

新しい形で、自分自身を粗雑に扱っているのかもしれない。

なにかちいさくていいから、自分の好きなことの芽を、ちいさくちいさく大切にしたいな。って思った。でも、どうしたらいいのかよくわからない

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