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梅丘の伯母

私の人生に一番影響を与えた人は、伯母だと思う。
父の兄の妻で、生まれも育ちも東京の世田谷。子供はいない。

福岡県北九州市で生まれ育った私は、高校卒業後に大学へ進学するため東京へ。第一希望の大学には落ちたが、「女の子だったら、K大学のほうがいいと思う」という伯母の意見で、他に複数合格した大学の中から進学先を決定。伯母の自宅は小田急線の梅丘駅から徒歩15分ほどの場所にあった。そこからほど近い井の頭線沿いのアパートで、私は東京生活を始めた。

時間があるときは、服、バッグ、アクセサリー、食器、小物など、とにかく買い物好きな伯母と、下北沢や新宿、青山のお店を回って、行きつけのお店で食事をした。ヘビースモーカーである伯母はタバコを吸うために途中で喫茶店に入るので、そこでカフェオレやオレンジアイスティーを飲みながら早口で声の大きい伯母の話を聞いていた。両親とは違う時間の使い方や話題を持つ伯母との時間を通じて、私は人も街もモノも情報も多い東京を急速に自分の一部にしていった。そして伯母から買ってもらった様々なもので私は成り立っていた。

考えてみると18歳以降、北九州にいる両親や妹よりも長い時間を一緒に過ごしている。私の親しい友人達からも「リョウコちゃんの伯母さん」と認識されている。

あれから、25年以上が経ち、現在伯母は75歳。変わらず世田谷で暮らしている。
伯父は20年前に肝硬変のため亡くなった。
私は、就職で東京を離れ、結婚をし日本を離れた時期もあったが、東京に住んだ年数は、北九州よりも長い20年になった。

伯母は以前から糖尿病と肝炎の持病と付き合っていたが、変わらずよく話し、良くタバコを吸い、精神的には元気であった。しかし最近足腰が悪くなり、駅前まで杖を使って行けるかという状況である。なじみのカフェに行けないのが辛いということだ。加えて自宅の階段の昇降が不安で、2階部分はほぼ使われていない。
そして、家中は使わないもので溢れている。

私は一昨年から家族の仕事に帯同しイギリスに住んでいるので、年に1度程度しか会うことができない。
日本も仕事も離れ、自由な時間がある今、マーケティングの教科書に載っているような「どんな人にどんな価値を届けたいですか」と問いに答えるとするならば、伯母が抱えている様々な痛みを取り除いて、何か理想があるならば叶えてあげたいたいということだけは明確である。

早口で声が大きいことは変わっていない。私たちが日本に帰ってくることを楽しみにしているという。伯母が生きることに前向きであることは、改めてこれから私がどんな人間でいたいか考えるときに影響を与えている。

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