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千里の道も一歩から

今日は運動会の音がどこからともなく聞こえてきた。そうだ、いつからそうなったか、運動会はもう秋じゃなくて春になったんだ。

と思いながら一生懸命走る子や悔し涙を流す子もいるんだろうなぁと好き勝手に想像する。

今年になってから小学校の放課後事業として子どもに教える機会が増えたけど、この仕事をしていなかったら到底会えない子ども達。とても思い入れがある。

先入観や自分への制限をかけていない年頃だから会話も瞳もみずみずしく、できるなら毎週行かせてもらえたら嬉しいくらい。

私の耳は200個あるのかと思うくらい一斉に喋り出したり、椅子に座ってられない子やみんなを笑わせる子など、ディズニーランドより刺激的かもしれない。でもとにかく絵が活き活きしている。

そう、生きている。

もちろん子どもだから画材に慣れてなくて(大人でもそうだけど)はみ出すし、つい大人目線になると「ここは直したほうがいいんじゃない?」と言うところでも、よくよく全体を見るとそうじゃないことも多々ある。

うまく描こうとすると退屈な絵になると、知り合いの画家さんが話していた。

子どもはそれを地で体現しているのかもしれない。最低限の技術はあとからいくらでも身につくけど(上には上がいるが)、生きている絵、いまコレを描きたい!という熱望的な絵はパッションがすべて。

ちなみに私のあだ名はパッション涼子だったことがある。チョークアート仲間の一部だけに浸透した。

芸人のパッション屋良氏を彷彿とさせるネーミングに少し戸惑ったが、そう呼ばれると思わず「そうだね!プロテインだね」と返事をしてしまいそうになる自分がいたことは否めない。


こうあるべきだという枠組みで世の中を見てしまうと、その途端に目の前の景色が色褪せていくことを子どもを通して感じられるようになった。


もちろん傍若無人に振る舞っていいわけではないし、頑張っている人の足を引っ張るような子がいたら叱る。

大人になってもそういうことをしていると、まわりに誰も人がいなくなったり、度が過ぎると捕まったりする。
そんなことして目立ってもひとつもカッコよくない。



それにしてもnoteを書いていると、1ミリずつくらいだけどやりたいことの形、りんかくが見えててくるようだなぁ。


千里の道も一歩からって言うけど、人生って千里を目指す旅路なのかもしれない。


 千里を爆走しそうな子たち


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