内なる宇宙からの旅立ち 羽生結弦の「プロローグ」
講演会
「羽生結弦の革命 フィギュアスケートから新世界へ」
[2023年7月16日 ミラノ ラトゥアダ・オーディトリアムにて開催]
に寄稿
プロローグ」は、文字通り羽生結弦がスケート人生の序章である競技者としての期間に何を目指し、どう達成してきたか、の物語です。
そのストーリーはモニター上から始まりました。2022年7月19日の羽生結弦によるプロ転向宣言の会見映像、次いで競技会に臨んだ日々のヒリヒリするような空気感を映し出し、「SEIMEI」で世界記録を更新した2015年の輝かしい勝利の瞬間へ。そこで初めてリンク上に白いジャージ姿の羽生が出現します。始まったのはなんと6分間練習。氷の感触を確かめ、ジャンプを確認していく羽生の顔は青白く、眼差しも固くて、その緊張感は世界選手権やオリンピックにも劣らないほど。最高レベルで構成された競技プログラム「SEIMEI」を、競技会以上の完成度で演じるにはそれだけの準備が必要ですし、パーフェクトな数分間のために何万時間もの気の遠くなるような努力が重ねられてきたことを改めて示唆する演出効果もありました。結果として観客は高い緊張感を共有して深く惹きこまれ、羽生は競技者時代を凌駕する技術と美しさで見る者を圧倒しました。
第二章は時間が巻き戻され、世界で戦績を上げ始めた幼少期からジュニア時代の映像が流れます。三味線の生演奏とともに登場した羽生が滑るのは当時のエキシビジョンナンバー「CHANGE」。新しい赤と黒の衣装です。続くトークとリクエストのコーナーでは「SEIMEI」の緊張感とは打って変わり、ふわふわした末っ子モードで観客とのやり取りを楽しんでいました。一方で選曲や進行には自信満々なディレクターぶりを発揮し、希望が分かれたリクエストに応えるためにその場で段取りを変え、演目を増やし、曲のカットも変更。突然の指示に照明や曲かけのスタッフは一瞬混乱したようですが、いたずらっぽくカウントダウンして煽る羽生にきっちりついていきます。羽生の掌握ぶりが伺えて「演出/プロデュース・羽生結弦」が見せかけではないことを示していました。
その後もたくみに過去の映像とリアルをつないで「ロミオ+ジュリエット」を滑り、さらにYouTubeで公開済の動画「夢見る憧憬」に続けて動画のラストと同じく白い布をマントのように羽織った羽生が登場。「夢見る憧憬」の後編のように切れ目なく、自身の振り付けによる新作「いつか終わる夢」を披露します。ジャンプも派手なステップもなく、しなやかな上体の動きに飾られた優美なスケーティング。プロジェクションマッピングの光が森となり、底知れぬ水となり、渦となって羽生を取り囲みます。「怖い」「独り」「消えた力」…、孤独のなかで光を探し求めるような言葉が羽生の足元から湧き出し氷上を覆いつくします。正面ショートサイドから見ていた私は波のように押し寄せる言葉たちに飲み込まれそうな錯覚を覚えました。リンクは揺れ動く流体となり、深淵に潜む何かがキラキラとうねります。水底の深淵と光に満ちた空間。光が散乱するその狭間を漂ってゆく羽生は異なる2つの世界の境界を司り、自在に往来する神でしょうか。渦巻く輝きはやがて眩しい円となり、羽生はその中央に跪き、鎮めるように氷に手を置いて舞い納めました。次の演技「春よ、来い」も花吹雪のようなプロジェクションマッピングの中で舞われ、アンコールは羽生のもう一つのシグネイチャー「パリの散歩道」でした。
全体の構成を見ると、映像だけが流れて羽生がリンクに居ない時間はそれなりに長かったと思います。しかし、選び抜かれた映像と現実の演技とを巧みに連携させることによってストーリー性が明確になり、「不在」を感じさせないとても充実した90分でした。2次元作品よりも絵画的な美しさを備え、ミリ単位でコントロールする正確なスケーティング技術を持つ羽生だからこそ映像とシームレスに競演でき、プロジェクションマッピングとの親和性も際立ちます。「プロローグ」で見られたストーリー性は、2023年2月の「Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023“GIFT”」でさらに顕著になります。心の深層へと旅する一連の物語は「夢見る憧憬」がYouTubeで発表されたときから、すでに始まっていたのです。
羽生が観客を導くのは、魂の奥底へと潜航し、深淵から湧き出すものを捉え、揺れ動くその何ものかを形にして見せるインスタレーションアートのような宇宙。音を呼吸し、鼓動で拍を刻み、抗いがたい波動を放ってやすやすと大空間を支配する羽生結弦の創造世界です。時にはロックスターのように客席を煽り、煽られ、その表情も滑りも刻々と変化させていく羽生は一時も留まることがありません。競技という名の研修を卒業した彼は、自身の内なる宇宙から出発し、誰も見た事のない世界へと飛び立ちました。未来の歴史に刻まれる新しい冒険の始まりです。
思えば16歳の「ロミオ+ジュリエット」の頃から羽生は他の誰とも違い、幼さの中にも異界を背負った狭間の生きものを思わせました。頭角を表す前からローマの大富豪たちに巨額の出資をさせてしまうような特別な才覚の持ち主だったユリウス・カエサルや、アートの世界に留まらないマルチな才能と魅力で王侯貴族の宮廷に次々と招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチや、優れた政治感覚を備え、大胆な変革者もであった足利義満をとりこにした世阿弥のように、羽生結弦もまた刺激を与え、覚醒を促し、価値観・世界観や進む道を否応なく転換させてしまう強烈なカリスマを持った「Homme fatale(致命的な魅力を備えて人の運命を変える者)」であるのかもしれません。
彼に惹きつけられる人々の動きは今や大きな波となり、その勢いは増すばかり。この魅力的な大波がどこへ到達するのか、ぜひ見届けたいと思っています。
※拝見したのは以下の3公演です。
2022年11月5日(土)プロローグ ぴあアリーナMM公演ライブビューイング
同12月3日(土)フラット八戸公演 現地
同12月5日(月)フラット八戸公演 録画
PS:
講演会の司会をされた『日本文化協会 L’ALTRO GIAPPONE』の美術監督バルバラ・ワシンプス様から「惑星ハニューにようこそ」ブログのNymphea様を通し「従来のアイスショーの概念を覆す革新的なショーという意味においての『プロローグ』の考察」というお題をいただいて日本語で寄稿させていただきました。
「L’ALTRO GIAPPONE」は日本と日本文化に心を寄せてくださる研究者の集まりです。東日本大震災から10年目となった2021年にはナポリ国立考古学博物館を舞台にマッシミリアン・アンベージ氏の講演「トータルパッケージ~羽生結弦に捧ぐ」を含む日本文化フェスティバル「ジャパンウィーク」を主宰されています。
公式サイトでは羽生結弦選手の「天と地と」にフォーカスした特集も組まれ、私が2020年全日本フィギュア選手権での初演を拝見して書いた『遥かに上がるや雲の羽風 羽生結弦の「天と地と」』をわざわざイタリア語に訳して掲載いただいたのが最初のご縁です。
素敵なご縁と、応援してくださる読者の皆様に感謝し、精進して参りたいと思います。
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