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父・そしてディアスポラたち

  一国二制度が危うくなり、集会やデモが許されなくなって逮捕者、行方不明者が出ているという二〇二一年の香港。昨年あたりから急激にキナ臭くなったニュースを見ながら、亡き父を思い出すことが増えた。

 私の父は祖父の仕事の関係で大正十二年(一九二三年)にイギリス統治下の香港で生まれ、両親と姉、妹、現地人の下男や運転手や阿媽などとともに小学校卒業までそこで暮らした。日本商社の支店長だったと祖父と香港商人との取引は莫大な掛金が動く麻雀とセットになったきわどいものだったようだが、弱気とは生涯無縁だった祖父には性に合っていたらしい。
 中学校進学を前に帰国した父は都内の府立一中に入学。祖父の所属はこの前後に上海へと異動したようだが、父は内地に残された。直後の昭和一二年(一九三七年)に盧溝橋事件が勃発し、香港には戦火に追われた難民が大量に流入したという。
 植民地で比較的自由に育ったせいか、軍事教練などを行う配属将校たちが教師より幅を利かせる日本の学校生活は窮屈だったらしい。成績が良くて、生意気だった父はよく配属将校と悶着を起こしていたという。写真に残る当時の父は、顎が細く、牛乳瓶の底のようなロイド眼鏡をかけていかにも非力そうに見えるが、実際にははったりと逃げ足の速さが自慢の喧嘩好きだったようだ。


 父の思い出話のなかで、とりわけ印象深いのはヒトラーユーゲントの少年との交流である。ヒトラーユーゲントはドイツで当初ボーイスカウトのように活動していた組織だが、ヒトラーの台頭に伴いナチスのイデオロギーを刷り込むための「ヒトラー青年団」へと姿を変えて一〇歳から一八歳の青少年全員の加入が義務づけられた。日本へは日独防共協定締結後の昭和一三年(一九三八年)にドイツからの申し出で訪問が実現。東京陸軍幼年学校などを訪れたというから、同じ東京の父の中学校にも来たのだろう。歓迎行事などの合間に自由に話せる時間があり、父は一人のドイツ人少年と会話をした。驚くべきことに彼は「日本はヒトラーの口車に乗ってはいけない。彼はよい人物ではない」と言ったというのだ。英語での会話であまり複雑なやりとりはできなかったと思うが、話の意味は明白だった。少年とはいえ八〇〇万人もの団員から日本に来るために選りすぐられた訪問団のメンバーはナチス中枢の継承を義務付けられた飛び切りのエリートだったはずだ。内心に反ヒトラーの想いを秘めていたとすれば大変な意志力でそれを隠して暮らしていたのだろう。選ばれた使者として来日しながらあえて反体制的な意見を初対面の日本人に伝えた彼の気持ちは想像に余りある。もし話しが漏れればどうなるか、考えただけでも恐ろしい。

 父はその後、一高の受験に失敗した。日頃の成績は十分で試験のできにも自信があったそうだが、合格発表直後に中学の若い教師に「軍事教練の際の反抗的な態度が原因だから浪人・再挑戦しても無駄。私学に行きなさい」と耳打ちされたという。慶應義塾に進学した父は理工系だったのと生来ひ弱で結核の痕跡が肺にあったために学徒動員も免れ、何度かの空襲を切り抜けて第二次世界大戦を生き延びた。日本はアジアでの覇権を失い、一九四一年のクリスマスから終戦まで三年零八個月にわたり日本軍が占領した香港も再びイギリス領となり、大東亜共栄圏のために石炭をはじめとした物資調達に奔走した祖父の仕事は海外駐在から国内の炭鉱へと移った。

 大学院卒業後も研究室に残っていた父は、ある日、同僚に誘われて横須賀市走水の防衛大学校を見学した。自衛隊創設に伴い防衛大学校が創立される時期で、初代校長の槇 智雄が各大学に声を掛けて教職員を集めていた。父の研究室にも声がかかり、教授の推薦を受けた同僚が面談に行く際に、好奇心からついて行ったらしい。後日、推薦された人物でなく父を欲しいと槇校長から指名され、運命が変わった。吉田 茂、白洲 次郎等に推されて防大を創った槇 智雄はオックスフォード卒のリベラリスティックなジェントルマンで、軍事的なものにヒステリックな拒絶反応を示す当時の世論をいなすには恰好の人物だったかもしれない。そのカリスマ性に引き寄せられてか零戦の設計者堀越 二郎なども防大で教鞭を取った。軍隊は嫌いだったはずの父もおそらく予想外のスカウトを受けて感激したのだと思う。敗戦を経て一八〇度変わったようでいて、性懲りもなく付和雷同的な世論に生来のへそ曲がりが反応したこともあるかもしれない。
 防大は全寮制で地方出身者が多い。週末に半ダースほどの防大生が辻堂にあった我が家に遊びに来て泊まっていくこともあった。今ほどレジャー施設がなかったし、一年生は私服外出が許されない。自衛官が歩いているだけで心無い罵声を浴びせられたり、故郷の町での成人式から締め出されたりする時代だった。しかし我が家に遊びに来た防大生は皆屈託なくのびのびしていて、私や兄と庭でバドミントンをしたり、家からすぐの海岸で大きな砂のお城を作ってくれたりした。彼らが帰った後、我が家の冷蔵庫は空っぽになっていたけれど、布団が真似できないほどきっちり綺麗にたたまれていることに母はいつも感心していた。

 父は無事に畳の上で往生したが、ヒトラー批判を口にしたヒトラーユーゲントの彼がどのような人生を送ったのかは知るすべもない。ナチス将校がショパンの調べに心を動かされてユダヤ人ピアニストを匿った実話に基づく「戦場のピアニスト」や、トム・クルーズがヒトラー暗殺を企てるドイツ人将校クラウス・シュンク・フォン・シュタウフェンベルクを演じた「ヴァルキューレ」等の映画が制作されたのは父の死よりずっと後のことだ。モデルとなったドイツ将校はどちらも非業の死を遂げたと聞く。戦争犯罪にかかわったナチス関係者への制裁は今も続き、日本の旧軍に対するそれとは次元が違うようだ。ディアスポラ(故国喪失者)とは主にユダヤ人に対して使われた言葉だそうだが、第二次大戦後はナチス関係者の一部が糾弾を逃れるために故国を捨てて南米などへ渡り、生涯身を隠すことになった。

 返還時に約束されたはずの一国二制度が事実上崩壊した今、香港から大勢の人々がイギリスへと渡っていると聞く。今年の夏はアフガニスタン政変に伴い、新政権タリバンの迫害を恐れる大量の現地人がアメリカに向けて離陸する米軍の輸送機に殺到したというニュースに驚かされた。今もアメリカや日本に保護を求める現地人の待避は完了していないが、それでも数千人以上のアフガン人が既に故国を後にしたという。ディアスポラは今日も世界中で生まれ続けている。

 父は少年時代を過ごした香港での生活や友人たちを懐かしんでいたけれど、アメリカやヨーロッパには観光で出かけても香港には一度も行こうとしなかった。昔、何かの折に母が「女三界に家無し」と言ったとき、父は「男にだって帰るところはないんだ」と言い返したことがある。考えてみれば母は頻繁に宮城の実家と行き来があったが、父にはそういう場所がなかった。父祖の地は岡山で本籍もあったが、香港で生まれ、中学以降を東京で過ごした父には馴染みが薄かったらしい。戦争とその後の世界の動きによって、懐かしい香港が心象風景とはまったく変わっているだろうことは見なくてもわかる。父もまたディアスポラであったのかもしれない。


 電気工学、自動制御が専門だったにもかかわらず、父は子どもに算数や物理を教えるのが下手だった。その一方で幼い私が
「お話して」
とせがむと「ほら吹き男爵」とか「ガルガンチュア物語」あたりをめちゃくちゃに改ざんした、たいそう面白くて全く教育的でない物語を聞かせてくれた。
「もっと、もっと」
と際限なくせがまれてネタ切れになると、父は庭に出て掌で望遠鏡を作って空を見上げ、
「うーん、まだだな、まだ遠いなあ」
と言う。
「君のためにお空に新しい長い長ーいお話をたのんだのが、そのうち降ってくるはずなんだけど、お空はとっても高いからまだ落ちてこないよ」
ともっともらしい顔で説明するのだ。
「どこ、どこ?」
と私も空を見上げるが、もちろん何も見えはしない。父は確信ありげに虚空の一点を指さすと、
「あれが降ってきたら拾っておいで、読んであげるから」
と言いおいて書斎に戻ってしまう。

 こんな手口で何百回となくはぐらかされたせいか、いまだに私はつるつると面白おかしい作り話を並べてだましにかかる詐欺師野郎に弱い。父に教わって多少なりとも役立ったのは、喧嘩の勝ち方と飲んではいけない酒はどれかということくらいだ。
 長い、長ーい物語の着地点は、まだ見つけられていない。
二〇二一年 九月五日 

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