「愛されなかった」から「愛されたい」を受け取ること

母のことを思うと、一番最初に浮かんでくるのは、

「愛されなかった」

ということ。

いや、充分愛されてきたし、いろいろな経験や環境も与えてもらったし、一般的には裕福な家庭だったから、何かに困ったことはない。
年に1回の家族旅行と月に1回くらいの外食と、テストで良い点取ったらご褒美と、みんなと同じように進学塾とスイミングに通えるくらいだから、恵まれていたことは確かだ。

では、なぜ「愛されなかった」という感覚に陥るのか。

そこを探求するにはまず自分の内側と向き合う必要がある。

自分の内側は見たくないけど、思考や行動のクセみたいなものはあって、これまでの成功体験にしろ処世術にしろ、自分がここまで生きていく上で必要なプロセスだったから、自分でも気づきにくい。
自分で気づきにくいし、直視するのが嫌であればあるほど、見ないでいられるように回避行動も長けてくる。

例えば、私の場合は「役に立たない人間はいらない」というメンタルブロックがある。
だから、どんな場面でも役に立とうとするし、自己犠牲があったり、”やりたいこと < 役に立つこと” の優先順位になるし、役に立つことで自分の存在意義を示そうとする。「ほら、こんなに役に立つんだから、私はここにいても良いよね?いて当然だよね??」って思いたがる。
最近では、”ギフト” なんて便利な言葉を使って、自分の存在意義を示すためのお役立ち情報をぶら下げたりしてる。
でも実際は、特に友人関係では、役に立つ/立たないなんて、それこそ何の役にも立たないし、損得勘定ナシの友人関係、単に居心地がいい、とか気が合う、みたいなつながりに比べたら、お役立ち情報なんて勝ち目がない。

分かってる。そんなの意味ないって。
人間関係を損得で考えているうちは、その枠組み以上の関係にはならないって。

分かってても、親から与えられたいろいろな物の中には、
「きちんとしている優等生の自分」(が褒められる)
「テストで良い点取った自分」(が親を喜ばせられる)
みたいに、何か親にとって都合の良い事象を生み出した時に、自分の価値が認められる、という経験。
子が自分の期待通りの成果を出せば出すほど、親の期待は増すばかり。
そうやってできた、勉強も運動もできてリーダーシップそこそある私、幸せだったか?世の中舐めてたよ、たぶん。

そうやって生きてきた。
人生の旨味もそれなりに味わってきた。
社会に適合して、競争に勝っていくものとして、このパターンが強化されていった。

でも、自分で子どもを産んだとき、赤子があまりのエネルギー、ただ泣く、親におう思われるとか関係なく、泣いたり笑ったりしている様子を見て、気づいてしまった。

「あ、私、愛されてなかった」って。

自分の価値・存在を肯定するための行動ばかりしてきたから、手放しで愛されてなかったのかも?と気づいてしまった。
だから、何か相手にとって都合のいい”私”でいないと、生きいる価値がないって言われている気がして、必死で役に立とうとする。
その結果「役に立たない人間はいらない」となる。

自分が手放しで愛されてなかったって気づいた時は、とてもとても絶望した。
私、こんなに頑張ってきたのに、愛されなかったんだ、って。
私、こんなに良い子だったのに、結局愛されなかった、って。

子育てにおいても「何があっても愛さなければいけない呪縛」みたいなのがあって、スポーツで活躍してたり学校で褒められるようなことあっても、過剰に褒めない・反応しない、みたいなスタンスを取ることがある。
いやいや、普通に頑張ったら褒めてほしいでしょうよ、子どもは。
って思うけど、そのパターンが強化されてしまう怖さがある。
褒めたら、子の意思とは無関係に親に褒められるために頑張るのではないか・・・?と。

「何をしても愛しているよ」と伝えたいために、
「何をしても愛していない」という行動になってないか??

じゃあさ、私は本当はどうして欲しかったんだろう。
「愛されなかった」って気づいてから早10年。
「愛されなかった」事実が受け止められなかったから、手放すことばかり考えていた。
でも、一旦「あぁ、愛されなかったよね」って味わってみた。
そして、もう一回問う。本当はどうしたい?

「私は、愛されたかった」

愛されなかった絶望の裏側にあるのは、愛されたいという強い思い。
俯瞰してみれば簡単なことが絶望という渦中にいると盲目的になってしまう。
そう、私は愛されたかった。
頑張っても頑張らなくても、私は愛されたかったんだよね。
そして、生まれたばかりの私はきっとそうだったはず。

そして、ここからどうやって生きていこう、って選べるのだ。

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