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「しないでおく」ことについて

新しく何かをすることは大変です。ただでさえ忙しいのに、これ以上何をしろというのでしょうか。億劫だし、たとえ始めることができても、続けるのがまたひと苦労。そんな風に感じるのが、当たり前だと思います。

食事をつくる、住まいを整える、服を洗う……数え上げてみれば、人ひとり生きるだけで大変なこと。仕事や人間関係もある。じっさい、そんなに何もかも自分ひとりで抱えることはできません。やれるといいなと思っても、やらなくてはいけないことで、いっぱいいっぱいの自分を見つけるだけだったりします。たぶん、もうすでに「何か」をやりすぎているのです。

やりすぎているのは、自分でやろうとしたことだけではなく、誰かにやらされているものもあるでしょう。もし、「させられている」もののうち、どれかひとつでも「しないでおく」ことができたら……。そのとき初めて、私は新しい何かをすることができるようになるはずです。

「しないでおく」と「やめる」は似て非なるものです。「やめる」ことはむずかしい。なぜならそれは「やめ続ける」ことを必要とするからです。私は「やめる」という考え方そのものに無理があると感じます。自分の意志の力で、何かを一切やめることなどできるものでしょうか。

できるとしたら「今日のところは……しないでおく」くらいで精一杯。そして、ほとんどの場合、それで充分ではないかと思うのです。

今日のところは、メールに返信しないでおく。

(じつは明日返しても問題ないのだ)

今日はもう、あのことは考えないでおく。

(もうじゅうぶん考えたではないか)

今日のところは、死なないでおく。

(明日死んだっていいわけだから)

こんな風にして、一日一日を終わらせていく。そうしているうちに、いつの間にかそれをしないまま、人生が暮れてゆく。あんなにも取り憑かれていたのに、いつの間にか忘れて……。「暮らし」とはそういうものだと思います。

「これをする」「あれをする」も悪くはありません。変えるべきものを変えるのも当然。そうして手に入れたものもあります。しかし、それもまたひとときのこと。いつか手放すかもしれないし、また取り掛かるかもしれません。よっぽどのことでなければ、それでいいのだと思います。私は変わるのですから。それは絶望であり希望でもあります。

ある計画によって、革命的な変化がこの私に起こること。古い自分をやめて、まったく新しい自分を始めること。ときにはそんな夢を見ることもあります。というか、しょっちゅう見ています。革命の夢が必要なときはたしかにある。ただし、その夢は基本的に私だけのものです。

「おまえを変えてやる」「それも、革命的に」。世の中にはそうした言葉が溢れています。しかし、簡単に耳を貸すわけにはいきません。なぜなら、それは結局、他人の夢を見させられることだからです。勘違いしやすいのですが、同じ夢を見ることと、他人の夢を見させられることは決定的に異なります。前者は縁、後者は動員です。

私が変わる。しかも革命的に変わる。そうなったらどんなにいいでしょう。でも、今日のところは、そうしないでおく。たとえ、私が、何かをせずにはいられないのだとしても。私は何かを「したり、しなかったり」する可能性を、簡単に譲り渡すわけにはいかないのです。なぜなら、何かを「したり、しなかったり」する、その有り様こそが、私という存在の肝だからです。

私自身、気がつけば「する」ことばかり考えてきました。が、それだけでは上手くバランスを取れないような気がしているのです。そこで、もう少し「しないでおく」ことについて考えてみようと思っています。

読んでいただいてありがとうございます。