〈2023/07/15〉『君たちはどう生きるか』
『君たちはどう生きるか』。その溢れる才能が発する光の眩しさと滾る情熱に同業者やファンが、なにより自身が、いち絵描き、いち物語作家として生きることを許してくれなかったひと──宮崎駿が、ようやく念願だった児童文学作家になったのだ。長編アニメーション映画という形式で、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、L.F.ボーム『オズの魔法使い』、ミヒャエル・エンデ『モモ』級の児童文学の名作が生まれたのだ、児童文学作家・宮﨑駿の誕生であった、エンドロールを観ながらそう感じた。
【以下、具体的なネタバラシはなし。未見のひともなるべく先入観を持たず観られるように書いたつもりです。とはいえ後述しますが、「おはなし」部分はあらかじめ知っていても興が削がれるタイプの映画ではないと感じます。Wikipediaには現時点であらすじが書かれており、しかも間違っているので読まないほうがよいです】
ああ、「宮崎駿の時代」に子が「間に合ったのだ」という証(あかし)として観に行った。カリ城もパンコパもトトロもポニョも夢中になった子は、まだ映画館で宮崎作品を観たことがない。
公開日まで宣伝らしい宣伝もなくキャスティングも発表されず予告編すらなかったこともあるのか、公開翌日の午前中なら三連休の初日だというのにまだ席がとれる、とれるというかそれほど混み合っていない。子に朝めしを食べさせたあとにwebサイトを確認すると悪くない席が空いている。口コミが拡がり夏休みに入るとどう転ぶかわからないので早めに劇場に連れて行きたかった。ただ、事前情報がないのは「子連れで行けるかわからない」にも繋がる。いきなり濃厚な大人の性愛だとか、切腹して内臓ボトボト垂れ落ちる描写だとかがあったら困るのである。日野日出志マンガのように「きみが 死ぬ番だ!」とやられたら困るのである。「こんなものを観せてしまった、どうしよー」(銭形警部)である。
結果的には、『天空の城ラピュタ』のようなまんが映画の復権を目指しての失敗もなく、『ハウルの動く城』よりもきっちり物語映画しており、『崖の上のポニョ』ほど観念的でない、優れた作品だった。何にも知らない状態で観られる映画というのもなかなかない。ただし、えっ!?こんな展開に!?という驚きは前情報皆無とは相反し、画と音を除いた「おはなし」に関しては実のところほぼ無い。ものすごく真っ当な・正統的な・ステロタイプやテンプレートだとすらいえるほどに、神話的な児童文学の枠線からハミ出すことのない物語なのだ。ただし先に〈画と音を除いた〉と書いたように、画面・アニメーションについては驚嘆・驚愕・畏怖の念を抱いた。
一緒に観た子は場内が明るくなった瞬間に「めちゃくちゃおもしろかったなぁ!」と言う。帰り道に「どこがよかった?」と子に問う。たいていこういうときは具体的なディテールやシークエンスが出るのに今回は「ぜんぶやな」と即答した。
過去の宮崎アニメーション作品を彷彿とさせる場面や描写が多々ある。子ですら上映中に「(小声で)これトトロのあれやんな」と言うほどの。むしろ既視感のないカットのほうが少ないかもしれない。監督作ではない『赤毛のアン』(場面設定・画面構成/監督:高畑勲)を彷彿とさせる部屋もでてくる。しかしそれは自己模倣や同じネタを擦るというよりも、本作に登場する過去の宮崎アニメーションに似ている部分は、この作品、此処に至るまでの過程だったとすら感じさせる。別に極論や捻ったことを言いたいわけではない。優れた芸術家というのは同じ方向性を持った表現を無意識に反復するものだし、新たなステージにおいても自身の積み上げた経験や感性で過去作と近い結論が出ることもあるだろう。だが、本作ではそうは感じなかった。「ここに辿り着くためにアニメーター、漫画家、映画監督、宮崎駿はいたのだな、いや、ともすると少年期にそこいらの紙に人物と場面と物語を描き始めた宮﨑駿少年は最初からこうだったのかもしれない」なんていう想いを自然と抱いた。
ひとりの少年が読み終えるまで寝たくない本、何度も読み返して、成長してからも心のどこかに残っている──それは祝福と呪いがあわさった物語なのかもしれない──本、その少年が本を読んでいる最中に脳内に侵入して少年の脳が生み出している興奮がスクリーンに映し出されたかのような映画だった。
何日か前に、なにか予感があったのか、それともたまたまそういう気分だったか、『グリーングリーン』の日本語歌詞を読み返していた。「ある日ーパパとふたりでー」で始まるあれを。日本語歌詞作者の片岡輝氏は1933年生まれ。宮﨑駿版『君たちはどう生きるか』主人公とほとんど同世代だ。
夜。子と寝る前のいつもの儀式──「おやすみなさい」をいくつかのハンドサインと決められた手順とセリフでやる、「おやすみ」「いい夢を」「あしたもがんばろうな」「がんばろうな」「おやすみなさい、ウンウン(声を合わせて)」「おや」「すみ」「お」「や」「す」「み」「おやすみなさい」をやる。そのとき、私は子に声をかけずにいられなかった。「なあ」「なに」「今日、あの映画をトット(私)と観たことをできれば忘れずに覚えていて欲しいんやけど」「わかった」。
〈〈〈この下は余談ですが、作品を観てから読んだほうがよいかもしれません〉〉〉
〈余談〉
『崖の上のポニョ』には天国(的な場所)が出てきて大団円、『君たちはどう生きるか』には地獄(的な場所)が出てきてT・S・エリオット的なNot with a bang. but a whimperだ。しかし前者のほうが死の匂いに満ち、後者の方が生の煌めきのふくよかな香りに満ちているのは、まったくのところ不思議だ。『崖の上のポニョ』は2008年、15年前の作品だ。どうして15年前よりも潤いのある、諦観しつつも同時に青くさく、衒いもなく暗喩や寓意をつかった作品が撮れるんだ。そういう面からも『君たちはどう生きるか』は宮崎駿監督最新作というよりも、児童文学作家・宮﨑駿先生デビュー作という印象を強く受けた。
これは、語りがいがあるのでいずれ書くかもしれないが、洋式・和式・和洋折衷というのは様々なディテールにおいて意識されているように思う。ズックと草履と革靴が横並びで置かれた玄関(下駄も印象的に使われている)、日本家屋・洋館(日本でつくられた西洋式建物)・西洋式建造物が並べられていることなどなど。主人公が口に出す言葉に「便所」と「トイレ」の違いがあるのに気がついただろうか。その折衷への意識には、前作『風立ちぬ』で、ある種の自己精神分析を経たのも影響したろうか。
偏執的ともいえるほど描きわけられている各人物の「歩き方」の違いのアニメート。歩くときの歩きかたが歩幅が姿勢がみんな違うのだ。板間と石段と平地と坂と草地と泥地を歩く動きが違うのだ。そしてある人物に「そう動くと頭ブツけるで」と私が子に言いそうなことを感じた次の瞬間に本当に頭をブツける。それを演出的な予測じゃなく、絵の動きから次の動作の予測ができてしまう。異常だ。異様なほど高水準でエモーショナルなアニメートだ。閉めにくい窓や、戸の重さや摩擦が、ドアノブの重さが、軋む効果音だけでなく、人物の動きで「そういう窓」「そういう戸」「そういうドアノブ」だってわかってしまうのだ。物理エンジンで生成した動画ではなく、これは、ひとが描いた絵なのだ。寝巻きを着替え、ひとによって変わる重いトランクケースの持ち方、少年の歩幅での石段の上りかた、靴を脱ぎ手に持ち家にあがる……冒頭から日常芝居の動作ひとつとっても異様な映画である。リアリティのある日常芝居に拘った高畑勲監督『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』への対抗心や敬意すらそこに見た。
ここまで書いて、ふと思い浮かび、赤面した。私は宮崎駿のことを自身の父や祖父のように感じていた節がある。商店街を駆け抜け、父を近所の碁会所に迎えに行くと、とうちゃんはそこで難しい顔をして盤面を睨んでいる。私は碁のことはそれほど詳しくはないが、次々に変わる局面を愉しく眺めている。たまにライバル的なオッちゃんと向かい合うときもあってそれは高畑勲なんだ。私はとうちゃんがそのオッちゃんと向き合うときはいつもよりムキになるのを知っている。額から脂汗を流しながらうんうんと唸っている。碁会所からの帰り道に、とうちゃんは碁に勝っても負けてもそのオッちゃんの碁の打ち筋の悪口を言うんだけどいつも何故だか機嫌がいいんだ。
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