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「見守り」と「監視」の違い

対人援助職の間では「見守り」という表現をあたりまえに使います。しかし、そこに当事者の気持ちは反映されていないことがあります。

障がいのある人、ご高齢の人、誰かを公的な制度にのせて支援する場合は、必ず支援計画(援助計画)を作成し、その計画に則って支援することが義務付けられています。「見守り」は、その支援計画(援助計画)で頻繁に使われます。また、その支援計画(援助計画)は、ご本人に説明をして承諾をもらわなければいけません。

地域で高齢者支援に就く人から聞いた話です。その人は、以前、サービスの利用者に計画を説明したところ、ご本人から「見守りなんて余計なおせっかいだ、いらない」と怒られたと言います。しかしそう言われて、初めて支援者のエゴに気がついたと言います。このエゴをパターナリズム(父権主義)と言います。

私のお袋は、特別養護老人ホームで生活をしています。以前はデイサービスも利用していました。たとえば、そこでのお袋の計画書には「移動:一部介助」「食事:見守り」「排泄:見守り」などと書かれています。私は、30年以上、障がいのある人の支援をしています。その私から見ると、特別気にすることない表記です。しかし、本人の立場からすれば、「排泄:見守り」なんて、とんでもない話です。

私たちは、本人のため、何かあったら困るからと、いろいろな介入をします。しかし、その中には本人の立場より支援者の立場を優先した選択肢が含まれています。

福祉サービスを利用されている人の中には、「もういいからほっといてくれよ」と思っている人がいると思います。しかし、それを言うことができず、がまんしたり、あきらめています。

支援をするためには、安全の確保は最優先課題です。私も、自分の法人の支援者には「常に見ていなさい」と指導します。見ているという支援は、「見守り」と言えば優しさを含んで聞こえます。しかし、言い方を変えれば「監視」です。支援者は意識して見る、利用される人たちには見られていることを意識させない、ということが大事だということを感じています。

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