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学校にクラスは必要か?

学校は、今週から新学期がスタートしました。我が家にも女子中学生と女子高生がいます。新学期の始まりはクラス替えで大騒ぎです。

長女は希望どおりのクラスになりました。でも次女は自分の思いとはかけ離れたクラスになり、現在、奈落の底にいます。

学校のクラスという仕組みについて考えます。現在のこのクラスという仕組みは必要なのでしょうか。クラスという仕組みがいじめや不登校、勉強意欲の低下に影響しているように思います。

学校に行くと、教室には空席が目立ちます。子どもに聞くと、学校に来ていないと言います。また授業に参加できず、教室を飛び出して来る生徒がいます。廊下には先生が待機していて、その生徒を教室に戻します。その間に他の教室から生徒が出てきます。その生徒を教室に戻しているとまたさっきの生徒が教室から出てきます。この繰り返しです。その生徒はそのクラスには居たくない、居場所がないと訴えているのにまた教室に押し戻します。

私の娘もある時期、クラスの仲間と気が合わず、学校に行かれませんでした。成績も底辺でした。幸いにも、次年度、クラスが変わったことにより学校にも行き、成績も持ち直しました。クラスは学力にも大きな影響を与えます。また、娘がクラスになじめない時、娘を支えてくれたのは部活の仲間達でした。子どもたちには健全な集団が必要です。

もし、このクラスという仕組みがなかったら、もしくは大人数で協力体制を組まなければならないものにのみ存在していたら、子どもたちはもう少し楽になるような気がします。

障がいのある方々を支援する事業所でも同じです。グループを作り、そこの仲間と認定すると、そのグループに所属できるかどうかがその人の良し悪しになります。支援者はそのグループになじませることをゴールにします。しかし、そのグループは本人の意思で作られたグループではありません。支援者がまとめやすいように作ったグループです。

こういう話をすると、社会はそんな甘いものではない、会社だって自由に部署を選べないではないかと反論が出ます。でもその会社は自分で選んだ会社です。また、本当に嫌なら自分の意思で辞めることができます。しかし、福祉事業所はまだまだ選べるほど整っていません。さらに一度利用を始めると辞めるのも大変です。

学校のクラスも同じです。子どもたちにはその集団を辞める自由がありません。その集団になじめないというだけで、貴重な青春の1ページに哀しみしかつづれなくなります。

学校にクラスという仕組みが存続するなら、もう一度、クラスの役割について考えなければいけません。

野田俊作先生、萩昌子先生の著書、「クラスはよみがえる」では、学校教育とは民主主義を維持するために必要な自覚と教養を、体験を通じて学ぶ場であるとしています。

自分の子どもたちやその友達を見ていて思います。学校のクラスが集団、仲間、協力、それらがどんなに素晴らしいことかを学ぶ場であって欲しいと。

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