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バトンを受け取る

お二人の大先輩が現役を引退されました。お二人とも80代の女性です。まだ福祉制度が不十分だったころから、さまざまな活動を通して地域福祉の開拓をしてこられたお二人です。今の私たちの「仕事」を作ってくれた人たちでもあります。私たちは、お二人からバトンを託されたと思わなければいけません。

今年の6月は、多くの福祉関係法人で役員の改選が行われました。私の活動する地区では、長年、障害福祉や地域福祉活動の発展と推進に力を尽くしてこられた大先輩お二人が現役を引退されました。お二人とも80代の女性です。

障害福祉サービスの基礎を作った先輩のこと

お一人は、障がいのある人たちが活動する無認可の小規模作業所の普及、その後は生活の場となるグループホームの普及に尽くされた方です。また、私たちが働く事業所の基礎となる制度作りにもかかわっています。

昭和54年に養護学校が義務化されました。それまで、障がいの重たい人は就学が免除されることがありました。それが廃止されて、送迎や訪問が整いました。たくさん支援が必要なお子さんも学校に行かれるようになりました。それによって次に課題となったのが、卒業後の行き先です。その卒業後の行き場が不足していました。

今回、現役を引退されたお一人は、その状況の中で家族会を作り、家族支援による事業所作りをすすめました。横浜では「地域作業所」という名称で広がりました。一時期、横浜市内では300ヶ所以上の地域作業所が作られ、そのほとんどが家族による運営でした。しかし、数があっても福祉制度が整備されていませんでした。その方は、地域作業所が制度化され、サービスが均一化されるよう、先頭に立って活動をしてきました。しかし、私はその方に反発をしていました。

先輩に反発をしていたころ

私とその方が一緒に仕事をするようになったのは15年ぐらい前からです。それぞれの拠点が同じ区の中にありながら接点を持たず活動をしてきました。さらに私が若いころは、その方に反発ばかりしていました。ただし、それは私の一方的な反発です。

当時の私は、家族会の廃止を訴えていました。ただしそれは、何もない時代に作り上げてくれた物を否定して新しい物を作ろうとしていただけで、物事を「点」だけで見ていました。

地域福祉サービスを開拓してくれた先輩のこと

そのころの私は、家族が負担してくれていた部分をボランティアで担えるような仕組みづくりをしていました。そのとき、協力をしてくださったのが、今回、現役を引退されたもう一人です。その方は、ボランティアの育成に力を入れ、さらに地域に福祉の目が芽生えるような活動を続けてきました。特に精神保健分野で地域の理解者を増やしています。

異端から協力へ

現場の支援者だったころの私は、世間が狭く、自分のやり方だけが正しいと思っていました。また、できあがった物、主流に対して異論を唱えることで、自分の存在をアピールしていました。しかし、自分で社会福祉法人を作ったら、自分も主流の一つになってしまいました。また、そこで周りを見渡すと、主流になっている人たちも、かつては異端だったということに気がつきました。ただし、私とは大きく違う点がありました。

私は、主流に反発をして、文句を言っているだけでした。さらに、自分の主張に同調してくれる人だけを味方につけて活動をしていました。しかし、基礎を作ってくれた人たちは、反発をしても最後は相手と和解し協力体制を作っていました。

家族会を作って地域作業所を広めた方は、行政ととことんやりあって制度化をさせました。その後、行政と共に障害福祉の発展を目指してきました。ボランティアの育成をすすめた方は、地域の偏見と戦い、和解して活動領域を広げてきました。自分が社会福祉法人を作って見えてきたことがたくさんあります。

バトンを受け取る

これからは、大先輩が作ってくれた基礎、それを引き継ぐこと、それを時代にあったサービスに変換させていくことが私たちの役割だと思っています。大きな大きなバトンを受け取りました。

長い間ありがとうございました。

連続投稿1000日まで、あと95日。


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