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私の人生を変えた人

毎年7月26日は同じことを書いています。私を育ててくれた人のことです。私は、その人に会わなければ違った道に行っていたかもしれません。ということは、今の社会福祉法人もありません。今日は、私の人生を変えた人のことを書きます。

私は、障がいのある人が利用する社会福祉法人を経営しています。最近は、事務仕事がほとんどです。それでも、毎日、利用者の皆さんに声をかけていただき、充実した生活を送っています。

ある青年との出会い

今から30年ぐらい前の6月のことです。私が働いている事業所に、養護学校の生徒(高校3年生)が実習に来ました。その実習生は、いろいろな障がいを持つ男子生徒でした。

彼は、言葉がありませんでした。また、歩くことや食事、トイレをはじめとした日常生活動はすべて介助が必要でした。そのような障がいを一般的には「重度」と言います。しかし、そんなことは関係なく、私は彼と気が合うような気がしました。また、私はその実習で、彼が翌年の4月から事業所の利用者になることを決めました。

転職の誘いと私の選択

ところが、それから半年後、私に転職の話がありました。それまでボランティアでお世話になっていた人が、新しい事業の立ち上げることになり私を誘ってくれました。その新しい仕事は、以前から私がやりたいと思っていた仕事でした。

しかし、私は悩んだあげく、その誘いを断りました。実習で出会った彼のことが忘れられませんでした。彼の利用決定をしたのは私です。また、その責任だけでなく、彼と一緒に働きたいと思いました。私は、彼との縁でそのまま仕事を続けて今の社会福祉法人の設立に至っています。

気の合う彼との活動

利用開始後、彼はいろいろなプログラムに参加しました。もしかしたらやりたくない活動もあったと思います。それでも彼は、私に付き合っていろいろプログラムを体験しました。

彼と私は常に一緒でした。調理当番の日は、一緒に包丁を持って野菜を切りました。また、私が大量の書類をコピーしなければいけないとき、彼は横で一緒にコピーを手伝ってくれました。私が原稿をセットして、彼の手を持ってスイッチを押しました。おかげで私は残業をしなくて済みました。

私たち支援者の仕事は利用者の支援です。サービス提供時間内は利用者と一緒に活動をしていなければいけません。ただし、利用者の中には、支援者の支援を拒む人もいます。しかし、彼は私の支援に対して協力的でした。私の支援をいつも受入れてくれました。私にはなくてはならないパートナーでした。ただしそれは、私の一方的な思いだったかもしれません。

意思の疎通について

「意思の疎通ができない人は人ではない」そういった間違った主張を押し通した人がいました。5年前の相模原の事件です。しかし、それは間違いです。

意思の疎通に必要なのは文脈です。その人とのやりとりの中で意思の疎通はできるようになります。それはもしかしたら支援者だけの思い上がりかもしれません。しかし、意思の疎通ができないと思っていたら、絶対に意思の疎通はできません。できると思えばいつかできるようになります。

残念ながら、私のパートナーだった彼は今はもういません。ほどなくして医療的なケアが必要になり、私の事業所を離れました。それからしばらくして他界してしまいました。彼は、私の人生を変えた一人です。

彼の家族

相模原の事件では「重度の障害者は役に立たない」そういう思想が表に出てしまいました。しかし、その思想は間違っています。私のパートナーだった彼は、私を育てただけでなく家族にとっても大きな支えでした。

彼が亡くなる少し前に、彼のお父さんが亡くなりました。彼は、一人っ子だったので、お母さんと二人きりになり、彼が、お母さんを支えていました。彼は、お母さんに労いの言葉も、感謝の言葉もかけられませんでした。しかし、心でお母さんを支えていました。

貢献

どんなに障がいが重たくても誰かに貢献をしています。彼がいなければ私の社会福祉法人はできなかったかもしれません。また、彼は長男として最後までお父さんに代わってお母さんを支えていました。

相模原の事件で犯人は「障がいのある人が家族にいたら家族が不幸になる」そうきめつけていました。それは、違います。

差別や偏見が、福祉従事者から生まれることがあります。今、前線に立つ私たちがしっかりしていかなければいけません。7月の終わりは、私たち支援者が襟元を正さなければいけないときです。

連続投稿1000日まで、あと62日

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