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「いつかギラギラする日」のトワレ

 「いつかギラギラする日」(1992) 監督:深作欣二 主演:萩原健一

走るおっさんズ。

 人間は完全に自由でない限り 夜ごと夢を見続けるだろう

ポール・ニザンのこの言葉で始まる、その映画。

 車は日産テラノで拳銃はベレッタ92F、酒はアブサン。いいじゃないか。 
 だが映画「いつかギラギラする日」で萩原健一演じるギャングの神崎に荻野目慶子演じる麻衣が「トワレ素敵!」と言うそのトワレが何だったのか、作中で明かされることはない。どうしてもそのトワレが気になって、時々想像している。 仲間の死に神崎が、多岐川裕美演じる美里に「何か掛けてやってくれ」と言う。美里は遺体に掛ける毛布を取りに行きかけるのだが、すぐ神崎の心情を理解してレコードを掛ける。このシーンは終盤の「死ぬまでまだ1、2分ある。24でくたばるんだ、好きな歌のひとつも歌って死ね」という台詞につながる。身の内に狂気を飼ってはいるがスタイルを持ち合わせ、石橋蓮司演じる井村(樹木希林演じる妻の台詞から在日韓国人だったと分かる)の死に苦悩をみせる神崎は魅力的だ。
 そんな神崎がまとう(素敵な)オードトワレとは何だったのだろうか。

 三億円事件に着想したギャング映画。人物の人生はごく短く乾いた断片でしか示されない。説明はないし理解させようともしていない。来歴も未来図もない、あるのは意地と獣の衝動、一個の人格の中で決して消えない悪。

裏切り、三つ巴、破滅――ほかに何もない映画だから安心。

 「神崎」はともかく自分が「ギラギラする日のトワレ」は決まっている。ギラロッシュの「ドラッカーノワール」だ。手になじむ30mlのボトルならAmazonで2,000円もしないような、高校生のコロン並みのお値段なのだが。

Guy Laroche DRAKKAR NOIR(30ml)

 誰もが好きになる香りじゃない。この香りを多くの人が「おじさん」「整髪料」というワードで語る。しかしそれが私には分からない。全然ちがうのに。私は調香師じゃないがこの良さは分かる。別に、おれの香りってことでいいんだぜ。誰か使おうなら「でもおれの方が似合うよ」とニヤリたい。まだこっちそんな感じで行かせてもらうんで。ですからどうぞ、どうぞ敬遠していただいて。

 私はトワレが好きで、若い頃からいくつも試してきた。「90年代に日本で店頭に並んでいたようなものは」程度のことだが、その中で嗅いだ瞬間に心奪われたまま変わらないのがこの「ドラッカーノワール」だった。国内では決して人気ではない、フゼア調で強い印象をもつトワレだが、決して沈み込ませず、青さが吹き抜ける。その青臭さは、まるで未成熟な内面を残したまま肉体的に成熟した男性像のようだ。安っぽくてカッコいい。この香りみたいな安くてカッコいい男になりたかったんだ。映画なら3番目に死ぬような、出番がトータル5分くらいの、スターじゃないのに色っぽくて、直情的で幼い、だからこそスクリーンの中での鮮烈な死を、誰もが忘れない男に。

        ここをこすると香りが出ます → ■

 双璧で好きだったのは、グッチの「ラッシュ・フォーメン」。これの販売をやめたから、グッチなんか嫌いだ。本当に本当に愛してたのに。しかしラッシュはただ普段を演出してくれただけだ。ギラギラじゃない。まだタフに笑えるうちに、「ドラッカー・ノワール」を使わなきゃ。これをつけて恋人に会ったりしないし、恋人につけてほしいとも思わない。一人の時間のための香りは、どこまでも独りよがりで不敵なやつがいいのだ。

 「いつかヨタヨタする日」用のトワレも考えといた方がいいかもだけど。


 ショーケンの顔が歪みまくる。この映画においてだけなのかどうか、他に彼の映画は「誘拐報道」くらいしか観たことがない自分には分からないけど(「226」は観たが同じ日に「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を観たせいで何も覚えていない)、この映画における萩原健一は銃ひとつ撃ちナイフひとつ使うにしても、全くスマートではない。よく動けるし迫力もあるが、この手の映画がやりがちな「無表情無感情無機質にやればプロっぽいんでしょ?」の愚に陥らない。リボルバー横倒し撃ちのような無意味もやらない。命をやり取りする場面の焦りや怒りに歪んだ顔が、カッコ悪くてたまらない。年相応の弱さも脆さも感じさせて、それがいい。血と汗と脂が匂い立つ画面である。

 「おめえの足が老けたんだよ」と嘲られ「ああ?」と自分の足元を見やるショーケン。手鏡に映り込む顔には老いが滲んだ。不死身じゃないし、仲間は心もとないし、裏切られるし後手に回るし、どうみても分が悪いのだ。しかし/だから、この映画のショーケンはとてもカッコいい。
 よく知らないけどカッコいい役者だったんだな、ショーケン。
(当時の年齢を調べたらショーケンは41歳。現在の私よりはるかに若い)

 脚本を一読したショーケンが「Vシネマじゃねえか」と不満を漏らしたという話もあるし、実際、監督がやりたかったのもそれだろう。難点はある。特に「レコード」のやり取りと「カミソリ」と「おおー」のシーンは見てられなくて舌打ちするほどダサい。「メット取れ」の後の木村一八のセリフも余計なだけで、その後のシーンを殺しはすれ生かさない。いくつかセリフとシーンを削るだけで、この映画の評価は違ったのではないだろうか。
 エンドクレジット、萩原健一の「ラストダンスは私に」が流れる頃には全て許せるが、それは「映画が終わるから」許せるだけかもしれない。私とて、この映画が良いとは決して思わないのだ。――ただ、好きなだけだ。

 画面に萩原健一っていう役者がいるんだよ。それが全てで最高なんだ。全編に渡って萩原健一のにおいが濃密に立ち込めてる。全部支配してる。

 トワレだって付ける人の肌のにおいと合わさって完成するのだ。つまるところ立ち上る香りは自分そのものでなければならない。トワレに混じる自分のにおい。重要なのは自分がどんなにおいを放つか、なのだ。よう何だかとってつけたみたいだなあ。でも本当にそれだけしか残らないような映画なんである。ショーケンのギラギラ。それなしにはどんなトワレも意味をなさなかったはずなのだ。
 だからそのトワレが何だったのか、この映画で語られる必要は、ない。

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