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2020東京オリンピックが終わって考えたこと

わたしは、東京オリンピックの開会式も閉会式も観ませんでした。競技自体は、たまたまテレビをつけている時間帯にやっているものを観たり、つまみ食いみたいに興味のある種目を観たりしてました。

もともとオリンピックは、わたしにとっては体育会系の皆さんの大運動会だと思っていて、その歴史的背景や政治的背景についてはもちろん知ってはいますが、正直あまりそれについて論ずることには興味はありません。

ですので、今回コロナ禍の中でオリンピックを実行できたこと自体は、アスリートの皆さんにとっては今まで頑張ってきたことを披露する場がなくならなくて良かったですね、そして結果を出せた方についてはおめでとうございます、という感想しかありません。わたしにとって特別なイベントではありませんので、開会式や閉会式を観なかったのも、年末の紅白歌合戦を観ませんというのと同じレベルのことでしかありません。

それよりも気になったのは、今回のオリンピックは、もしかしたら初めて社会を分断してしまった初めての大会になったのではないかという点です。

オリンピックというのはその是非はさておき、自国の選手が出場して勝ったり負けたり、その勝敗に一喜一憂して、それがかりそめのひとときの出来事ではあったとしても、競技の時間や空気、そこから醸成される喜びや悲しみ、感動を共有して、普段は感じない国といったものの存在や、国民としての一体感を感じることのできる場であったと思います。

しかし、今回のオリンピックは、もちろんそういう楽しみ方をした方もいらっしゃるのでしょうが、ニュースの論調やSNSでの議論を見ていると、必ずしもそうでなかったことが明確だったと感じています。

そもそも、このコロナ禍の中でのオリンピック開催自体に反対する方がいました。あの開会式における電通のプロセスへの関与の仕方とその中身を批判する方もいました。

選手そのものに対する誹謗中傷もとても多かったです。こんなに選手に対する誹謗中傷が目についたオリンピックは、わたしは初めてです(それとも今までもあったけれどわたしが気付いていないだけだったのでしょうか)。何が今までと違うのだろうと考え込まざるを得ませんでした。

たぶん、オリンピック自体は何も変わっていなかったのだろうと思います。変わったのは、わたしたち。

2年に及ぼうとしているコロナ禍での自粛疲れ、政治不信、医療(科学)不信の長期化、それを利用しようとするデマゴーグたちと増幅機器としてのSNS。様々な要素がわたしたちを変えてしまったのではないでしょうか。

わたしも今回のオリンピックをめぐる様々なことを追っているわけではないですし、正直何が正しくて何が間違っているのかよく分からないんですが、でも、それでいいのかもとも思っています。そもそも正しい、正しくないと二者択一の発想になっていること自体が危険信号です。恐らく事象の一粒一粒は全て事実で、それぞれ背景も理由もあってそれぞれ個別に是非が論ぜられるべきで、オリンピックという抽象的な一般事象としての評価や是非とは関係がないんですね。

コロナ禍における自粛の是非はオリンピックとは関係ないですし(ネガティブなアナウンス効果はあったかも知れませんが、実際にどう状況を判断して自粛するかどうかはわたしたちの判断に委ねられています)、開会式の準備における電通の関わり方とか関係者の適性は別途議論されるべきですし、誹謗中傷はオリンピックに関係なく行われるべきではなく行った人たちにはそれ相応の刑罰が加えられるべきでしょう。

要は変な扇動に左右されず、パニックに陥ったり判断不能に陥らず、ひとつひとつの事象をきちんと理解しておく。その上で自分に利害関係のあるものについては判断して選択肢を選んで(自分に利害関係の無いものについてはそもそも判断したり選択する必要がありません。過剰な選択は他人への強制や扇動への加担に繋がります)、自分の日常を粛々と過ごすことです。

わたしはこのコロナ禍でも、オリンピックイベント中でも、淡々と日常をこなすことに専念しました。家で仕事をし、休憩時間は猫を撫で、三食は美味しいものを食べ、お休みの日はお酒を飲み、オンラインでフレンドとゲームを楽しみました。人生の幸せとはそういう日常の中にあるし、そういう日々を大事にしていければそれで良いのではないのかなと思っています。そういう幸せは日々自分が考え、判断し、選択する積み重ねの上にのみあるものであって、そしてその判断や価値基準は、人に強制したりSNSで巻き散らかしたりするものではないのだろうなと思うのです。


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