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田んぼで指差し確認をするおっちゃんの話

ある集落のいちばん奥の谷間に9枚つづく田んぼを借りている。その下におなじ水路を共有する2枚の田んぼを持っている仲の良いおっちゃんがいる。おっちゃんは大工をしているから、田んぼの管理は月曜から土曜までの朝夕と日曜日だ。機械もあるし、自分の土地を荒らしちゃいけんからな。それだけだ。たいぎいし機械がめげたらもうやめたいわ。おっちゃんはいつもそっけなく話す。


ぼくの住む田舎でもほとんどの土地を高齢者たちが管理している。面積をどんどん増やしていく元気な人もいるけど、多くの人が自分の土地を荒らすのはまずい、誰かに頼まれた、機械も一応あるしな。みんな一様にそんな話をする。10年したら何人が残っているのか、20年後にはどうなっているのか。そんな疑問がふと浮かんでくるけど、ぼくはあまり真面目に考えないようにする。


ある5月の夕方、仕事から帰ってきたおっちゃんは数日前に田植えを終えた田んぼにそのままやってきた。いやな、補植をちょっとな。そう言いながら、やれやれといった感じで苗かごを背負って田んぼに入っていった。子どものお風呂の時間だからもう帰りますよ、ぼくは車の窓からそう言って別れをつげる。車のエンジンキーをまわして動き始めたとき、ふと視界に映ったおっちゃんは田んぼに植わる稲の列を指差し数えていた。ぼくは涙が出そうになるくらい心が震えた。もし手元にカメラがあったらこの素晴らしい絵を残せたのにと悔やみながら、でもきっとぼくがカメラなんて向けたら台無しなのかなって思い直す。静かな、でも確かな感動を噛み締めながら家路についた。


後日見たその田んぼには一箇所の欠株もなく稲がきれいに植わっていた。おっちゃんは端から端まですべての列を一人で歩いて補植をした。前日に何列目までやったか覚えていたから、今日はどこから始めるか指を指して確認していたんだと思う。もしも農村に美しさがあるとしたら、それはそこに暮らす一人ひとりが当たり前に続けている日々の営みのことなんだろう。


ぼくの田んぼには欠株がたくさんある、植え方も未熟で補植をすべてやれる時間の余裕はない。だけどこれからも毎年自分を磨いていきながら、ここに暮らすみんなの当たり前に少しでも近づいていきたい。きっとまだ時間はあると思う。

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