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2024.5.16/木、短歌ってなんだったんだ日記+

五島諭の歌の話をします。
基本は日記なので、歌の話はあんまりありません。
歌の鑑賞について読みたい方は、2のパートだけお読みください。
全文無料で読めます。


1.2024.5.16/木、短歌ってなんだったんだ日記+

2024年5月15日発売の「BRUTUS」No.1008は「一行だけで。」と題して、短歌、詩、俳句、川柳、歌詞と様々な言葉が紹介される号になっている。

「がたんごとん」の吉田慎司さんが、石井の歌を紹介してくれているということで、一応確認しに行って、パラパラと立ち読みしたところで(買うか買わないか迷って、短歌研究からもらった図書カード500円と現金340円を駆使して、一応購入した。思い出に)、五島諭の一首が紹介されているのが目に留まった。

歩道橋の上で西日を受けている 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

五島諭『緑の祠』

あれ、この歌って

歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

じゃなかったか?

ネットで調べると、やっぱり「受けながら」というかたちで出てくる(いちばん上に出てくるのが「日々のクオリア」2019年2月22日の花山周子さんの一首鑑賞)。

ぼそっと、

とツイートすると、髙良真実さんが、

とリプライをくださったので「確認お願いします」と返答。

『緑の祠』については初め、2013年に「新鋭短歌シリーズ」として出版、その後2023年に「現代短歌クラシックス」として再び出版されている、という経緯がある。石井が読んでいたのは2013年版のほうで、2023年版は未読だった。

とは言っても、絶対に変更されているわけがないだろう、というのが石井の思うところで、主な理由は二つ、①「受けながら」のほうが歌として明らかにいいから、②五島諭が過去の出した自分の歌に手をつけるほど短歌に興味があるとは思えないから。

①のほうについては、まぁ、これは最初に読んだかたちのほうが好きですよね、ということで大した理由にはならないんだが、②のほうについて説明すると、五島さんのおれのイメージは短歌にあんまり興味がないひと、あんまり短歌の世界に固執はしない人というのがあるので。

五島さんはおれが短歌をはじめたときの2014年にはほとんど短歌の現場には顔を出していなかった。そもそも『緑の祠』も確か東さんの解説でだったと思うが、五島さん本人が自分の歌をちゃんとまとめていなくて、歌が散逸していてそれを集めるのが大変だった、みたいなエピソードがあった記憶がある。

ともかく自分の短歌に対してそんなにこだわりがない人だと思っていたので、再出版にあたって細かいところを修正するイメージが全くなかった。

というか、もう一つ理由を挙げると③今回は山田航さんが紹介していてこの歌が出てきているので、仮に改変があったとしても、山田さんが最初に出会ったであろう2013年の「受けながら」のバージョンで紹介するべき。そんな思考もあり、やっぱり、これはブルータス側のミスだろう、というのが石井の気持ちだった。

いったん俺は『不死身ラヴァーズ』という映画を観なくてはいけなかったので、映画館に向かった。『不死身ラヴァーズ』は原作の漫画のほうを昔、読んでいて、堂園昌彦さんに薦めてもらった記憶がある。基本的に人の薦めで作品を見ることは少ないのだけれども、たしか「この漫画は石井さんっぽい」というような言い方で薦めてくれたので読まざるを得なかった、という経緯がある。当時の感想は「しんどいラヴァーズ」というもので、その感想と大まかな設定以外は大した記憶にないまま映画を鑑賞。観終わったところで、あんまりしんどくなかったな、漫画こんな感じじゃなかった気がするな、という感想をもって劇場を後にしたところで、

髙良さんから

は?

そんなわけあるかよ?

まじかよ?

と思いながら映画館の下にあった本屋に行くと、短歌の本ほとんど置いてないのにも関わらず、『緑の祠』の新しいほう(現代短歌クラシックス版)が置いてあったので、当該の歌を探すと

歩道橋の上で西日を受けている 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2023年)

マジかよ?

せっかく現物があったので、とりあえず、購入して、

困惑しながらエスカレーターに乗って、

水沼朔太郎さんから追加の情報をもらいつつ、

と思いながら、帰りの電車に乗ったわけなのでした。

2.「自分yeah」の歌の「受けながら」と「受けている」について

ここからは具体的に歌の話です。

歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

五島諭『緑の祠』(新鋭短歌シリーズ/書肆侃侃房、2013年)

歩道橋の上で西日を受けている 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

五島諭『緑の祠』(現代短歌クラシックス/書肆侃侃房、2023年)

2013年版『緑の祠』の「受けながら」が良いと思うのは、この言い方をすることで、この状況を少しやむを得ず受け入れているような感じがするからです。自分で選んで受けている、というよりは、そういう状況になってしまった、という印象が強まっている。「ながら」という接続助詞を受けながら「自分yeah」という語につながっていて、文章としては完結していない故に、「自分yeah」がちょっと重だるく響くような感じがする。あわせて「自分yeah」をちょっと無理やり言っているような、そんな雰囲気も出てくる。

2023年版『緑の祠』(かつ歌会で最初に出てきたバージョンらしい。詳細は「ねむらない樹」vol.2を参照とのこと)の「受けている」だと自己肯定感が高すぎる、と思っています。終止形で文章として適切に絞められているぶん、歌全体がスッキリとしているし、「自分yeah」も終止形に近い感じで、それぞれがかなり歯切れよく繰り返される印象を受ける。

改めて音の面から考えてみても、「ながら」の、「な」の子音nの鼻につまる音、「が」の濁音、「ら」の口の奥で舌を巻く音、の気だるさに比べて「ている」はあまりにもスッキリしすぎている。

山田航さんが「BRUTUS」No.1008でこの歌を2023年のバージョンで引用して、

「西日」は斜陽に突き進む日本社会の象徴だろう。空々しく自らを鼓舞でもしないとやってられなかった時代の空気感が、過剰なリフレインで演出されている。

「BRUTUS」No.1008

と書いてますが、「受けている」のバージョンだと、絶対にここまでの読みには至らないと思う。「受けている」のバージョンだと「空々しく自らを鼓舞」というニュアンスが出てこないと思う。

歌の印象の違いについてはこんなところで、本当に考えたいのは「一旦世の中に受け入れられた一首をしれっと変えてもいいのか?」というところにある。

いちばん初めに公式に世の中に出たのが「受けながら」のかたちだったのだから、同じタイトルで歌集を再販する以上、そのかたちで提出するのが筋じゃないのか? 少なくとも最初に歌集を出すときはそのかたちがいいと多かれ少なかれ判断して出したのだから、そのかたちを貫くべきなんじゃないのか? そのかたちで世間に受け入れられたのだから、その事実を変えてはいけないんじゃないか?

じゃあ、おれが信じていた五島諭はなんだったんだ?

いちばん最初に歌会に出てきたときの素顔が「受けている」だったとして、公式に世の中に初めに出てくるときに「受けながら」という仮面を被って出てきたとして、その10年後に同じ歌集タイトルでしれっと仮面を外していいのか?「本当の私、こっちなんで、どうも」ってそれでいいのか?

短歌が過去の本当のことだったとして、そんなに簡単に過去をころころと変えていいのかよ?

歌会に「受けている」で出して、きっと誰かになんか言われて、そのときの感じで「受けながら」に変えて最初に歌集を出したんだとしたら、その誰かの影響までなかったことにするのかよ? 2013年から2023年の間にまたなんか別の出来事があったとして、そうだったとしたら、それだけの期間が空いたんだったら、もとのかたちに戻すんじゃなくて、中途半端にいじるんじゃなくて、また全然違う歌を新しくつくってくれよ。小手先で過去を変えるなよ。

短歌って、そんなに簡単に変えていいものなのかよ。

3.2024.5.16/木、短歌ってなんだったんだ日記++

みたいなことを一通り思って、現代短歌クラシックス版のほうを買い直した自分が阿呆らしくなってきました。別に金払う必要なかったな。

『緑の祠』に、高校の教員になったばかりのころの作品を加えた今回の改訂をもって、短歌の知覚に身を置いた時代に、一区切りついたと感じている。

五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2023年)「あとがき」

本書は『緑の祠』(二〇一三年、書肆侃侃房刊)にその後の作品を加え、新装版として刊行するものです。

五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2023年)

(「作品を直した」ということが明確には書かれていないことを確認するためだけの、1500円+税、になった)。

幾分、怒りすぎな感じもするのだけれども、『緑の祠』は短歌を始めてかなり最初のほうに読んだ歌集で(北海道大学短歌会で同時期に活動していた三上春海さんが五島諭を大好きだったのだ)、この「自分yeah」の歌は自分がかなり最初のほうに暗唱できるようになった歌で、好きな歌だったからたくさん読み上げていた記憶もあって、要するに思い入れが深い歌だったりもするわけで……。

そんなこととは別に、やっぱりそんなに簡単に過去作を変えてもいいのかよ、みたいな気持ちは変わらなそうです。完全に無かったことにはできないにしても、新しいこっちのやつが本音です、みたいに上書きできちゃうのはやっぱり違うんじゃないかな、と思います。

まぁ、おれがどう思ったって五島諭はたぶんなんとも思わないで生活を続けるでしょう。なんなら短歌(とその周りの人)に対しては、一旦勝手にいなくなったりもしている自分のほうがよっぽど不誠実だったりもするので、どのポジションからものを言ってるんだ、といわれたら返す言葉はありません。ただ、短歌がそこにあったことを信じる一個人として言うだけです。もうちょっとだけ短歌やらせてください。信じさせてください。

【追記】2024年5月21日

いちばんはじめに出てきたときのかたちが「受けている」だった件について、『ねむらない樹』vol.2を直接確認しましたので、当該箇所を引用しておきます。水沼さん、情報ありがとうございました。

 この歌会で僕は、ガルマン歌会の人たちの歌に大きなカルチャーショックを受けた。たとえば〈歩道橋の上で西日を受けている 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah〉という一首。
(中略)
 作者は五島諭さんで、この歌は後に、

歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

 と推敲のうえ、「pool」という短歌同人誌に発表された。

土岐友浩「ガルマン歌会がやってきた」/『ねむらない樹』vol.2(書肆侃侃房、2019年)


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