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カインとアベル

創世記4章1節~10節

04:01さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 04:02彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 04:03時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 04:04アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 04:05カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 04:06主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 04:07もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 04:08カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。 04:09主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 04:10主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
 このカインとアベルの物語はさーっと読んでいると、神が善人アベルを選び悪人カインを拒む物語、人類最初の殺人と裁きの物語としてすんなり流してしまうのですが、そのような救いのない短絡的な物語、人間の罪深さを表す神話として理解していいのだろうか、この話のどこかに救いや福音は隠されていないのだろうかと疑問を持ちながら読んでみました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」との福音がカインとアベルにはどう関わって来るのかみなさんもご一緒に考えてみて下さい。

 本日の聖書の物語は、創世記よりカインとアベルの物語でした。映画や小説のモチーフとして度々取り上げられるこの物語は有名ですが、天地創造、アダムとエバの失楽園の物語に続く一連の物語として語られています。
 3章23節では「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」と書かれており、今日の物語はエデンの園を追放された直後の出来事であることが分かります。エデンを離れたアダムはエバと結婚して子供を授かりました。1,2節には「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。」と書かれています。カインという名前は「得る」「獲得する」という言葉に由来しています。エバが発した「主によって男を得た」と言葉に因んで「カイン」すなわち「得た」と名付けたのでしょう。しかしここで不思議なのは、エバは主によってというよりは、楽園を追放された後、主を離れてアダムによってカインを身籠ったのに、何故「主によって得た」と考えたのかということです。

 少し前に遡ってみますと3:15,16に
お前(蛇)と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」との神の言葉が記されています。
 ここで神は蛇と女に対してお互いの子孫が敵対すること、女の子孫が蛇の子孫の頭を踏み砕くことを告げました。蛇はサタンのことであると考えられていますが、このサタンという言葉には敵対する者という意味があります。人間とこの蛇の間には常に敵意が存在する、蛇は人間にとって常に相容れない仇敵であるのだと考えれば、なるほど敵対者、サタンであると言えるでしょう。
 ここでエバは神が約束したこの子孫、すなわち蛇の子孫を踏み砕く者が産まれたのだと考えたのかもしれません。「主によって男子を得た」は「主を備えて男子を得た」と訳すこともできます。主の約束の力を備えた男が産まれた、自分達を誘惑する蛇を打ち砕く者が産まれたと喜ぶエバの姿が思い浮かぶようです。しかし、この後の物語の展開を見れば分かるように、カインは蛇を打ち砕く者ではありませんでした。それどころか、罪の誘惑に負けてしまう弱い人間であったと言えるでしょう。蛇の子孫の頭を砕く者、悪魔に打ち勝つ者は神の子イエスの誕生まで遂に現れることがなかったのです。いえ、究極的には再臨のイエスが訪れて敵対する蛇を完全に打ち砕いてしまうその時まで、この約束は成就されていないのだと考えることができるかもしれません。であるならば、神がはじめに創造された人間に与えた約束の言葉は、今もなお待ち望まれたままでいるのだと言えるのかもしれません。この問題については最後にまた少し触れることになるかと思いますが、ひとまず物語の先へと進みましょう。

 さて、エバはもう一人男子を産みました。カインの弟にあたるこの男子に彼女は「アベル」と名付けます。アベルには、「蒸気」、「無意味」、「愚かさ」、「儚いもの」等の意味がありますのであまりよい名前とは言えないでしょう。他にも「息」「命」等の意味もあるのですが、どうしてこんな名前を付けたのか理解に苦しみます。何やらこの先の運命を暗示するようではありませんか。

 聖書には「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」と書かれています。エデンの園にいた頃、アダムとエバは園に生えている木から果実を取って食べていればよかったのですが、取って食べるなと命じられた木から食べた罪の故に、人間は食べ物を得るために苦しんで働かねばならなくなりました。麦等の栽培、山羊・羊等の家畜化がティグリス川とユーフラテス川の間の平野であるメソポタミア地域に定着するのはおよそ6000年から5500年前であると言われていますが、狩猟採取生活をしていた人間が農耕・牧畜で生活し始めた頃の記憶がこの物語の根底に存在するのかもしれません。因みに「エデン」にはメソポタミアの言葉で「平野」との意味があります。寒冷季に海岸線が上がりオアシスの豊富な平地が海の底に沈んでしまったとの研究もありますが、何らかの理由によって肥沃な平野を追われ、荒れ地で額に汗して働かねばならなくなった人類の歴史が失楽園の物語と関わっているのでしょうか。
 ここで興味深いのは、狩猟採取の生活から農耕牧畜の生活に変化したことが進歩や発展と捉えられるのではなく、呪いであり楽園からの追放と考えられていることです。考古学的な見地からは、農耕時代の始まりは社会階層の形成や分極化が進んだ時期、人々の平等が失われて貧富の差や身分の差が生まれた時期であるとも考えられています。人々が平等であり協力していた時代を楽園での生活になぞらえ、貧富や階級の差によって争いあう農耕牧畜の生活を堕落と捉えたものだろうかと、つい余計な想像をしてしまいます。

 さて、カインもアベルも神を礼拝する者たちでした。彼らの努力が結実し収穫を得ることになった時、カインは土地の実りをアベルは羊の初仔を献げ物として持ってきました。しかし神はアベルとその献げ物には目を留めましたが、カインとその献げ物は無視したと3節以降には記されています。
 神が何故アベルの献げ物は受け入れ、カインの献げ物を認めなかったのかということをどう考えるかについては古来より解釈が分かれてきました。はっきり申し上げれば、その理由が一切語られていないため想像によってそれを補う以外に方法がないとも言えます。

 ある人々は羊を飼うアベルと土を耕すカインに、放牧生活をしていた族長たちと農耕生活をしているカナンの民との対比を見て来ました。アベルに目を留める神の姿を牧畜を営む父祖アブラハムに対する主の顧みとダブらせて理解したのです。
 確かに聖書の神は父祖の信仰の故に子々孫々まで祝福を与える神ではあります。しかし、アベルの子孫がイスラエルの民でありカインの子孫がカナン人であるというならばそれもわかりますが、20節を見るとカインの子孫であるヤバルが家畜を飼い天幕に住む者の先祖となったと書かれておりその理解は成り立ちません。また結局のところアダムの3番目の息子であるセトの子孫にノアが産まれ、このノアの時代に洪水で堕落した人々が滅ぼされたこと、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトから全世界の人々が出て広がったのであるとされていることを考えるとアベルとカインのどちらも地上の民族の祖先ではないということになりますので、これは少々苦しい解釈と言わざるを得ないでしょう。

 ある人々は、アベルは信仰によって羊の初子、それも肥えた上等のものを備えたのに対して、カインは収穫した物を惜しんで初穂ではなく、劣ったものを捧げたからではないかと考えました。
 確かに新約聖書ヘブライ人への手紙11:4には
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」と書かれています。
 またヨハネの手紙Ⅰ、3:12には
カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」と記されているので、この説は根拠が確かなようにも思えます。
 4節には「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と書かれています。原文を直訳すると「羊の群れの初子達の中から脂の乗った肉を取って捧げた」となるので、アベルが神に最も上等な美味しいところを献げ物としたのだということは分かるのですが、特にカインの捧げものが劣悪なものであったとも初穂ではなかったとも書かれてはいません。むしろカインも自分の手で献げ物を捧げたと記されているのですから、彼も神を礼拝する信仰を持っていたと考える方が自然です。
 この新約聖書の解釈には、既にカインがアベルを殺すという罪を犯した物語の結末を知っていることによる先入観が含まれているのではないでしょうか。また神は善に報いて悪を罰するお方であるから、何の故もなく一方を受け入れ一方を斥けることなどないであろうというその時代の神理解が影響を与えているようにも見えます。
 レビ記の26章27、31には「わたしの言葉を聞かず、反抗するならば、(中略)あなたたちがそこでささげる宥めの香りを受け入れない。」と書かれていますから、神がカインの献げ物を受け入れなかったのはカインが神の言葉に背いていた証拠だと考えることもできそうです。
 確かに神がモーセに与えられた律法を中心として、旧約聖書全体を通じて主張されているのは、神の言葉に従う者には祝福があり、これに背くものには呪いが与えられるというテーゼだからです。
 しかし、カインとアベルの時代は律法が与えられるよりもずっと前の時代です。だから、その彼らの行いを後の時代に与えられた律法に基づいて解釈することには問題があるでしょう。しかも、ここではまだカインが神に背いたとされる出来事すら起こっていないのです。

 むしろ、旧約聖書の様々な物語に目を通すならば、神は善に報いて悪を罰する方であるとの主張と並行して、神は人間の理解の及ばない決断をなさる方で、その御心をはかり知ることは出来ないとの理解が貫かれているようにも見えます。

 例えば出エジプト記33:19には「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と書かれていて、神の決断が全くその自由な意思によって為されることが告げられています。
 神がカインの罪の故でなく、全く自由なその選びの中でアベルを選んだのだとすれば、6,7節の神の言葉
どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
のニュアンスも変わってきます。この言葉は「お前がその罪、不正の故に拒まれたのでなかったなら、まっすぐに顔を挙げて堂々としているがいい。つまらぬ嫉妬や怒りに身を任せてはならない。」と理解できるでしょう。

 信仰を持つ者が神から見放されたように見える、義人が理不尽な苦しみに苛まれるというモチーフは旧約聖書中に度々現れます。
 例えば、詩篇10編を見ると1,2に
主よ、なぜ遠く離れて立ち
苦難の時に隠れておられるのか。
貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて
その策略に陥ろうとしているのに。
」とあり、
10,11には
不運な人はその手に陥り
倒れ、うずくまり
心に思う
『神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と。

と記されていて、神を信じる者が神に顧みられない嘆きを詠っています。
同様に13:2-4にも
いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い
日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
」との嘆きが詠われます。
 またヨブ記は、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブがサタンによって財産や親族の命を奪われて信仰を試されるという、この世の不条理に対する深い問いかけとなっていますが、
30章19-22ではヨブはこう叫びます。
私は泥の中に投げ込まれ
塵芥に等しくなってしまった。神よ
私はあなたに向かって叫んでいるのに
あなたはお答えにならない。御前に立っているのに
あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり
御手の力をもって私に怒りを表される。私を吹き上げ、風に乗せ
風のうなりの中でほんろうなさる。

ヨブの訴えに神は答えています。36:21-26です。
悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは
まさにこのためなのだ。まことに神は力に秀でている。神のような教師があるだろうか。誰が神の道を見張り
『あなたのすることは悪い』と言えようか。世の人は神の御業に賛美の歌をうたう。あなたも心して、ほめたたえよ。人は皆、御業を仰ぎ
はるかかなたから望み見ている。まことに神は偉大、神を知ることはできず
その齢を数えることもできない。

 神は人間を苦難によって試し悪い行いに顔を向けないように計らう、神の御業を評価することなど人間には不可能なのだとこう語るのです。

 7節で神はカインに告げます。
もしお前が(中略)正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」神の御心に対してそれは「悪い」と怒る権利がお前にあるのか。もしお前の方が間違っているのなら、罪はお前を誘惑しようと待ち構えている。お前はそれを制御しなければならないと。
 アダムとエバが善悪の果実を食べたことによって、人は神のように善と悪を知る者となりました。しかしそれは同時に疑いなく神に従っていた無垢な心を失い、自らの判断で善と悪とを判別しなければならないという試練の始まりでもあったのです。
 神の選びに躓き、怒りに任せて弟を殺害してしまうカインは結局のところ義人ではなかったのかもしれません。しかし、神は少なくとも試練を通して、カインが罪を支配し悪い行いに顔を向けないようになることを望んでいたのであり、彼を導こうとしていたことは確かなように思われます。神は罪を犯したカインが滅びることをお望みにはならなかったのです。創世記3章で神は確かに人間をエデンの園から追放しました。しかし本当は、原罪を得て神に背くことを覚えた人間を再び善へと導き、楽園への帰還を迎え入れることができるようになることをお望みなのではないでしょうか。

 つまり、神の国に入るとは失った楽園を取り戻すことであり、神の言葉にとどまり、罪を支配し、蛇の誘惑を斥けてこれを打ち砕くことなのだと考えることができるのではないかとわたしはこのカインとアベルの物語を読んで考えたのです。
 3章15章の神の言葉
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。

は楽園を失った人間にとっての希望の約束でありました。そしてこの約束は生ける神の子イエス・キリストとしてこの世に成就します。しかし、失楽園から始まる人間の歴史の物語は再び楽園に帰り着くまで終わることはないでしょう。であるならば、わたしたち一人一人がキリストを着て再臨のイエスと一体となり、神の義を手に入れるまで「終わりの日」は訪れないということなのです。この結論には論理の飛躍があるとお考えになる方々もおられるでしょうが、わたしが聖書を読み始めて以来「終末」「終わりの日」について問い続けてきた上でたどり着いた結論は、今現在このようなものです。ここでくどくど根拠を述べたりはしませんが、これからもメッセージを語るときには度々言及することになるだろうと思いますので、その折々に触れるといたします。

 閑話休題。
 神が御顔をわたしたちから隠しているように見える時も、理不尽な苦難に悩まされるときも、神はわたしたちを試して、悪い行いから離れるように導いておられます。だから、わたしたちはまっすぐに顔を挙げて神の国と神の義を求めようではありませんか。神はわたしたちに滅びではなく、救いと幸せと平和を与えようと望んでおられるのです。

 祈りましょう。

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