忘却と呪縛 ~教会報巻頭言として
江戸幕府の終焉と明治維新、太平洋戦争の敗戦から現代まで連綿と日本人に引き継がれる、その精神性の正体とはなんだろうか。
日本人は批判的思考が苦手であるように見える。「○○を批判するな」「~さんに批判されて悲しい」なんていう言説からも、批判と否定を区別できていないことがよくわかる。
そもそも批判とは何であろう。
すなわち批判とは、自らの好悪に捉われず論理的思考に基づいて事柄の評価を判断するということになろう。一般的な例として挙げた意味は上述された中での3番にあたるだろうか。否定的に事柄をあげつらう屁理屈をつけた難癖、程度に解されているようだ。
批判的思考を英語で言うとcritical thinking である。
critical thinking
noun [ U ]
uk/ˌkrɪt.ɪ.kəl ˈθɪŋ.kɪŋ/ us/ˌkrɪt̬.ɪ.kəl ˈθɪŋ.kɪŋ/
the process of thinking carefully about a subject or idea, without allowing feelings or opinions to affect you
~Cambridgedictionary~
https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/critical-thinking
感情や意見に左右されることなく、あるテーマやアイデアについて注意深く考えるプロセス。ということであれば、どう聞いても良いことのように思えるのだが、日本で批判というものがこうも嫌われるのはどうしてなのだろうか。
日本人は情緒を批判的思考よりも寧ろ愛するのであろう。いや、寧ろ自身を無条件に肯定してくれることだけを他者に対して求めているのではないか。それをこれまで一般的に使われてきた用語にすれば、「甘え」であり、歪んだ「自己承認欲求」と言える。日本において、神やキリストがきちんと反省・観察されず、「神学」が御託を並べただけのお題目になってしまうのは、此等が原因であろう。批判的思考なくして神学なし。哲学という婢を欠けば、神学という女主人も食卓を整えることはできないのだ。
山本七平は「できてしまった社会」への追認の態度に言及するが、それは日本人の持つある種の素朴な信頼とも言えるのではないだろうか。
新体制は旧体制に上書きされるが、その下に忘却されたもろもろの事象、肯んずることのできない過去は呪縛として残り、我々を支配し続ける。
日本の宗教における雑修がこれと同じ様相を呈している。神道(これは道教の影響を受けていると言われるが)の上に上部構造として、仏教を乗せ、時にそれを儒教に国家神道に、またキリスト教に書き換える。
しかし、我が身を振り返ってみると、新しい体制(僕の場合はキリスト者になるということ)となった後、プリンシプルをすべて変更し、別人になるという方法を取りたいかといわれると、決してそうは思わない。古い体制を漸進的に刷新しながらも、古い自分の中に懐かしさを憶える、そんな生き方を僕はしてきた。
昨今見られる戦後の自虐史観に対する反動と日本礼賛も、帝国の軍国主義を忌避するあまりそれを忘却のかなたに追いやったことによって、却ってその亡霊に支配されることとなっているかのようである。そこで重要なのは、過去を直視する誠実さ、「黒歴史」と向き合ってそれを復活させないようにする真摯な態度ではないか。
日本人がいつまでも組織や国家を改革できないでいるのは、過去の呪縛を批判的思考によって乗り越え進むべき道を見出す術を失っているからであろう。
わたしは、日本に存在する、ある種の「自然主義」にも違和感を感ずる。それは、情景、自然の風景をただ眺め、車窓を景色が過ぎ去っていくように、過去へと全てを押しやってしまうような思考形態である。無反省、無責任。それは諦めと倦怠に彩られているようにしかわたしには見えない。日本のキリスト者が霊によって新しく生まれるためには、これらの過去の呪縛、自らの身に負った「呪い」を解く必要があろう。
2023.2.7 師長斎にて 小林燎旦
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