忘却と呪縛 ~教会報巻頭言として

 江戸幕府の終焉と明治維新、太平洋戦争の敗戦から現代まで連綿と日本人に引き継がれる、その精神性の正体とはなんだろうか。

明治のはじめに、江戸は忘却されたのである。しかし、思考と反省を経た上での乗り越えではなかったために、その精神の型は呪縛として残った。山本は、戦前に主張された天皇機関説と、それに向けられた非常に強い弾劾について言及した。国の統治の原理を客観的・抽象的に分析し、その作用を把握しようとするのは、ヨーロッパの発想からは当然であった。しかし、儒教的な感覚からは、『とんでもないこと』となる。そしてこの呪縛のために、天皇機関説をなぜ『とんでもないこと』と自らが感じているのか、ほとんど全ての日本人が、その由来について知ることができなくなっていたのである。
戦後は、戦前を忘却してアメリカが持ち込んだ民主主義や平和主義を理想化した。そして、二重の忘却によって、精神に沁みこんだ型は強化されてしまった。つまり、どのようなものであっても思想は真剣に取り組まれることはなく、空疎な借り物の権威として援用され、それ故に絶対化されること。理想化した対象と心情的に結びつくことが絶対的に肯定され、その心情が法に優越すること。倫理や道徳は内面化される一方で社会制度からは疎外されて、個人を拘束する道具となること。現状が肯定されるので、空気が変われば理想化の対象を乗り換えることには抵抗が少ないこと。
https://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/arabitogami-shichihei-yamamoto_b_8469708.htmlfbclid=IwAR0DS3IQ6sxsantefGb5Ayu4ygKT8V8faUjUKRs6qUF_EcGOal0oo-SsoDM ※既に元記事は消失しています
山本七平『現人神の創作者たち』を読む
堀有伸 精神科医(精神病理学) ほりメンタルクリニック院長 NPO法人みんなのとなり組代表理事

 日本人は批判的思考が苦手であるように見える。「○○を批判するな」「~さんに批判されて悲しい」なんていう言説からも、批判と否定を区別できていないことがよくわかる。
 そもそも批判とは何であろうか。

ひ‐はん【批判】
〘名〙
① 批評して判断すること。物事を判定・評価すること。
※正法眼蔵(1231‐53)無情説法「古今の真偽を批判すべきなり」
※浄瑠璃・一谷嫩軍記(1751)三「御賢慮に叶ひしか。但し直実過りしか、御批判いかにと言上す」〔資治通鑑注‐唐紀・玄宗開元二四年〕
② 裁判で判定・裁定すること。判決。
※大内氏掟書‐六五条・文明一七年(1485)四月二〇日「そのぬし出帯して、奉行所にてひはんをうけ」
③ 良し悪し、可否について論ずること。あげつらうこと。現在では、ふつう、否定的な意味で用いられる。
※洒落本・魂胆惣勘定(1754)中「女郎の㒵をほめ、衣装の有なしをかたり、くしかふがいのひはんをし」
④ 民間の噂話。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑤ 哲学で、事物や学説の内容を根本的に研究して、その全体の連関、意味、基礎を明らかにすること。マルクス主義の用語としては、イデオロギーを論理的に検討するだけではなく、それを生みだす物質的な条件や階級的な基礎を暴露すること。〔教育・心理・論理術語詳解(1885)〕
出典 精選版 日本国語大辞典      ~コトバンクより~
https://kotobank.jp/word/批判-612181

 すなわち批判とは、自らの好悪に捉われず論理的思考に基づいて事柄の評価を判断するということになろう。一般的な例として挙げた意味は上述された中での3番にあたるだろうか。否定的に事柄をあげつらう屁理屈をつけた難癖、程度に解されているようだ。
 批判的思考を英語で言うとcritical thinking である。

critical thinking
noun [ U ]
uk/ˌkrɪt.ɪ.kəl ˈθɪŋ.kɪŋ/ us/ˌkrɪt̬.ɪ.kəl ˈθɪŋ.kɪŋ/
the process of thinking carefully about a subject or idea, without allowing feelings or opinions to affect you
~Cambridgedictionary~
https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/critical-thinking

感情や意見に左右されることなく、あるテーマやアイデアについて注意深く考えるプロセス。ということであれば、どう聞いても良いことのように思えるのだが、日本で批判というものがこうも嫌われるのはどうしてなのだろうか。

 日本人は情緒を批判的思考よりも寧ろ愛するのであろう。

 しかし、日本において、神やキリストがきちんと反省・観察されず、「神学」が御託を並べただけのお題目になってしまうのは、ここら辺りが原因ではないかと考えられる。批判的思考なくして神学なし。哲学という婢を欠けば、神学という女主人も食卓を整えることはできないのだ。
 山本七平は「できてしまった社会」への追認の態度に言及するが、それは日本人の持つある種の素朴な信頼とも言えるのではないだろうか。
新体制は旧体制に上書きされるが、その下に忘却されたもろもろの事象、肯んずることのできない過去は呪縛として残り、我々を支配する。

 日本の宗教における雑修がこれと同じ様相を呈している。神道(これは道教の影響を受けていると言われるが)の上に上部構造として、仏教を乗せ、時にそれを儒教に国家神道に、またキリスト教に書き換える。
しかし、我が身を振り返ってみると、新しい体制(僕の場合はキリスト者になるということ)となった後、プリンシプルをすべて変更し、別人になるという方法を取りたいかといわれると、決してそうは思わない。古い体制を漸進的に刷新しながらも、古い自分の中に懐かしさを憶える、そんな生き方を僕はしてきた。
 昨今見られる戦後の自虐史観に対する反動と日本礼賛も、帝国の軍国主義を忌避するあまり、それを忘却のかなたに追いやったことによって却ってその亡霊に支配されることとなっているかのようである。そこで重要なのは、過去を直視する誠実さ、「黒歴史」と向き合ってそれを復活させないようにする真摯な態度ではないか。
 日本人がいつまでも組織や国家を改革できないでいるのは、過去の呪縛を批判的思考によって乗り越え、進むべき道を見出す術を失っているからであろう。

 わたしは、日本に存在する、ある種の「自然主義」にも違和感を感ずる。それは、情景、自然の風景をただ眺め、車窓を景色が過ぎ去っていくように、過去へと全てを押しやってしまうような思考形態である。無反省、無責任。それは諦めと倦怠に彩られているようにしかわたしには見えない。日本のキリスト者が霊によって新しく生まれるためには、これらの過去の呪縛、自らの身に負った「呪い」を解く必要があろう。

2023.2.7  師長斎にて   小林燎旦

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