岡田麿里、絵本奈央『荒ぶる季節の乙女どもよ。』
9月3日月曜日、雨のち晴れ
書店にて平積みにされた5巻を見て(さらに前、4巻のときにも気になっていた、気がする)、辛抱たまらなくなってしまった。
ということで昨晩1巻を購入。
「性」に興味津々の女の子たち(文芸部)が妄想に引きずられて暴走するお話。どいつもこいつも可愛らしいので文芸部設定が嘘くさくなってしまっているけれど、それはもうどうだっていい。
ああー、ああー、
あるよねー。
あるよねー! あってほしいよねー!!
みたいな。
甘酸っぱい。
5巻まで揃えました。
たいそうおいしゅうございました。
ごちそうさまでした。
いまのところ須藤百々子の女の子に向かう恋心(※)はあまり前面に押し出されていないけれど、どうなるかねえ。
一応の成就二組、対して不成立が二組、そして恋心の向きが異なる百々子。
※菅原新菜に対するふわっとした慕情。
* * *
しかしこれ、曾根崎り香に見る容姿へのコンプレックスとか(実はかわいいというファンタジーで逸らしているけれど)、その時期の女の子にとって死活問題で…… 大変だろうなあ。
男の子にとっても、ね。
* * *
僕/私だけを見てくれる、僕/私の最大の理解者。
半身が欲しいという欲求。
主人公・小野寺和紗の「私は本当に… 自分のことばっかりだった 悲劇ぶって ぐだぐだすることで かえって菅原氏を傷つけてた…」というセリフ。(文脈は違う)
恋したい、だとか、愛されたい、だとか。
いや、わかる。
わかるんだよ。
大事なんだよ、こういう気持ちは。
ただ、これって、そうおもっている段階では、向いている方向が「自分」なんだよね。自己愛。相手に向いていない。
それが悪いわけじゃないんだけれどね。自己愛は大切。なにがあろうと自分を好きでいてくれると確信できるのは、自分だけだから。(逆にどうあっても信頼できない場合もあるから難しい)
人を好きになるときは、鏡に映った自分を見るのでなくて。
自分と違う部分をみいだして、それを知りたいとおもうようでありたい。
自分と違う部分を大切にして、慈しんでいられるようでありたい。
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