考えられるのは、いつも後

先日読んだ早瀬耕の「グリフォンズ・ガーデン」冒頭のイメージが、いまだにエコーしている。

『未来においてインプットされた記憶』

僕らは、記憶というものを「過去のことを覚えているもの」だと感じている。
でも本当にそうなんだろうか。

僕らが何かを経験する。その経験を後から考える。何度か思い返すうちに「記憶」ができあがる。
「できごと」から見ると、記憶はその生じた時点から「未来」においてできあがる。

僕らは、ほんとうに正しく、できごとを記憶しているだろうか?
「いま」、あるいは「もっと先の未来」で、都合がよくなるように記憶をつくりだしたりは、していないだろうか?

先験的に記憶があって、そのとおりに動いたりすることは、ほんとにありえないんだろうか?

「約束しただなんて、おもってもいなかった」

もうすぐ定期テストでしょう? いままでと同じやり方をしたら同じような結果になるでしょう? なにをどこまで、どれだけするのか、きちんと決めて。 その計画は、いつまで待ったらできそう?
「明日の朝までかな」
できる? ほんとうに? わかった。 じゃあ明日、見せてね。 できたところまででいいから。

昨晩そんな言葉を交わした。
お昼になって確認したら、なにもしていないといわれた。
約束を破ったことについては、謝ってほしい。

「約束なんて、していない」

そう、返された。

なぜ、腹が立つのだろう。
なぜ、抑えられないんだろう。

裏切られたとおもった?
思ったとおりに進まないことが歯がゆかった?
ボスの権威が脅かされていると感じた?

腹が立つのは二次感情。先に、核となる信念が傷つけられ、その痛みから悲しみや寂しさが生じて、次に怒りがやってくるのだそうだ。「アンガーマネージメント」によれば。
でも。「そんな見苦しい言い訳をして! わかっているだろう!」という沸騰は、あっとおもう間も無い一瞬のことだった。

したくないことを、するということ

たくさんの「しなければいけない」ことを抱えて、僕は溺れかけている。
世の中の誰しもが、そうなんだろう。たぶん。

それでも、ねえ? 勉強は必要だよ。 知っていることと、知らないことを比べたら、知っている方が幸せだよ?

僕は、これを、心から信じられなくなってしまった。
知っていることがあれば、世の中に溢れたオマージュやパロディ、引用、それとなく「隠された」たくさんのメッセージを、宝探しのように見つけて楽しめる。
それはそうなんだ。
そうなんだけれど、それを見つけては「楽しい」と確認しあえる関係性は、僕には持ち合わせがない。

要するに、孤独だ。

見つけても。
思いついても。
大発見を一緒にワクワクしながら楽しんでくれる人は、そばに、いない。

そんなたくさんのことを知らなくても。
いや。
むしろ知っていることが少ない方が、純粋に、そのこと「だけ」を夢中に楽しめるんじゃないだろうか。

後から、考える

僕は、先に考えられるようになりたい。

でも。いつだって、
何かをしてしまったあとに、
何かが起きてしまったあとに、
考えている。

できごとがあって、
それに伴う痛みや苦しみ、あるいは喜びを感じて。
これを避けるために、あるいは繰り返し効率よく摂取するために。

その機会を逃さず捉えられるように。
その瞬間、遅れることなく逃げられるように。
そのために、生き延びてから、後になってから考えるのではないか。
経験してから、考える。

この考えたことは、将来の「できごと」に先立っているだろうか。
未来のために、僕は考えているんだろうか。
それとも過去に囚われて、流れ過ぎていっているのだろうか。

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