ツイートの耐えられない軽さ

8月20日火曜日、曇り時々雨

香山哲さんのノートが目に留まったので読む。その中で以下のように前置きされた箇条書きのひとつに「ぎょっ」とする。

ツイッターなどで異質な考えを目にした時、かなり突飛でも注目することがある。自分とかなり離れた考えに注目した時、そのアカウントを見る。

そのひとつとは『どんな損得をどんなふうに実現しようとして発言しているか』、だ。

そもそものノートが「反射的な応答への戒め」といった内容を含んでおり、「そうよね、深い考えもなしに、自らの価値観とぶつかったからと言って殴りかかるのは拙いよね」と頷きながら読んでいただけにガツンときた。

最近は意識して抑えめにしているつもりだけれど、僕のツイートは僕の未分化な感情の垂れ流し。技術・技巧的なものへの驚きや、ハッとさせられる考え方にひっぱられて駆動した思考のトレース、ごく狭い範囲の知人たちへの気安い声がけ……みたいなものが主になっている、とおもっている。

つまり、脳みその表層を閃き去っていった思考の残骸を、さほど深い考えもなく書きつられているにすぎない。自分の損や得を考え、なにがしか実現しようとしてツイートする──そんなこと考えもしなかった。(ということは俯瞰的にみると損をしているんだろう、僕は)

* * *

僕はささやかな市井の人間に過ぎないので、炎上することもないし不思議なメンションをもらったりバズったりすることもない。
ただフォローしている人たちの偏りによって、政治の不正や人権に関する不正義への怒り、恨み、告発などがやたらと目につく──気がする。

たぶん「正しくあらねばならない」という強い抑圧がかかっているんだろう。どこで仕込まれたかわからないけれど。

避けたいんだけれど、「〜でなければならない」「〜べきである」という考え方から僕は逃げられないみたいだ。


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