もしかしたら、僕たちは言語から感情を引っ張られているかもしれない。

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【アイのあるニンゲンに】

もしかしたら、僕たちは言語から感情を引っ張られているかもしれない。
余裕がない時、僕は「キド」人間になる。
喜怒哀楽の「喜ぶ」か「怒る」か。
なんとなくだけど、僕のような人間が世の中にたくさん増えたと思う。。

アイだがない。
間がないから、2つのピークを行き来するジェットコースターみたいな人間になる。
喜の間には哀愁があって、リラック(楽)スるニュートラルな時があって、そして悲哀が怒に繋がる。
感情のグラデーションがないのは、なんだか勧善懲悪で黒と白のよう。
そこには、I(am 自己)がわからなくなる人が増えているからかもしれない。
物事の判断が厳しくなる一方、間がないからストレスを抱える。
愛のある社会が、eyeのあるニンゲンをつくる。
人生の真理を見抜き、目で語る人間。

もしかしたら、僕たちは言語から感情を決めているかもしれない。
日本語にない感情語が世界にはたくさんある。
目の前の息子は、しっかりとそれを僕に伝えてくれる。
お母さんからの頼まれごと。
「お仕事を頑張っているダディーに、お母さん手作りシナモンロールを持っていてー」
よだれダラダラながらも、つまみぐいせずに持ってきてくれた。
彼のeyeからは、慈愛しか感じない。
彼は僕の大日如来。
僕をこの世界から救ってくれる

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