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掌編小説「お茶とたこ焼き」

 それは月が雲で霞む朧月夜のなか起きた出来事であった。仕事が遅くまでかかり、一人で会社に居残らないとならなかった茂道は電車に乗って最寄駅に着く時間まで大分遅くなった。あと、数時間で眠りにつかなければ翌日の仕事に体調が優れなく仕事の成果に影響するだろう。とはいい、すぐに眠りについたあとに朝を迎えれば、絶えず仕事のために生きているように思えて、この未来が予測できることにやや絶望感さえ抱いていた。そうしてうなだれたまま駅の改札を出たのだが、ふと駅入り口の前に毛むくじゃらのイエティが立っていてこちらをじっと見ていた。
「なんなんだ、これは」
 茂道は驚いたが、周囲を見渡しても他の人達はこのイエティに気づいていないらしく、立ち止まっている茂道に関心も向けずに通り過ぎて行った。不思議に思う茂道はイエティをよく見ていると、そのイエティが両手になにか持っているのに気づいた。それは湯呑だった。なぜ、イエティが湯呑を持っているのか。そもそもこの毛むくじゃらの生き物をイエティと呼んでいいのか、それとも識別できない怪物と捉えた方がよいのか、茂道の頭は混乱していたが、茂道はイエティのことが気になってしまい、イエティに近づいた。イエティは両手に持っていた湯呑をすっと茂道に渡した。普通の人なら、得体の知れないものが渡す食べ物や飲み物にはなにかしらの警戒心を抱くはずだが、茂道には不思議とこのイエティに対する警戒心が消えていた。茂道は両手で湯呑を受け取った。湯呑のなかをじっと見つめるとなかの飲み物は緑茶のように見えた。仄かに緑茶の香りも匂ってきて、茂道はいただいた湯呑をすすってみた。味は間違いなく緑茶であった。それもとても茶葉の味が生きている一番茶の風味に近かった。外気の気温は冷たく、丁度茂道のからだも温かい飲み物をも欲していた。茂道は湯呑のなかの緑茶を全てのみほした。茂道がお茶を全て飲むとまたイエティが両手を伸ばしてきた。
「ふう、温かいお茶をありがとう。ごちそうさま」
 茂道はイエティに空の湯呑を渡した。受け取ったイエティは満足したのか口元を緩めにやっと微笑んだ。なぜ、イエティが彼の前に現れたのか茂道にはわからなかったが、お茶を出し終えるとイエティは背を向けて歩き出したので、なにかこのイエティにお礼ができないのかと茂道は呼び止めた。
「あ、待ってください」
 その声にイエティは立ち止ったが、茂道がお茶をいただいた代わりになにか御礼がしたいと伝えても、彼の言葉をイエティには全く理解できなかった。この人は何を伝えたいのだろうとイエティも茂道の表情を見ては彼の意図を読み取ろうと茂道の話し声を聞き入っていた。しかし、集中して話を聞いても日本語を理解する力はイエティにはなく、茂道がゆっくり話している言葉もただの音の集合としか認知できなかった。そこで、茂道はイエティの手をぐっと掴んで、イエティの手を繋いだまま自分の家まで歩いて行った。イエティは自分の手を引っ張られても、既に茂道が色々と伝えようと頑張っていたためか気にならなかった。そうして茂道の住んでいるマンションに着くと、茂道はイエティを部屋に招き入れた。部屋に入る間に何人かとすれ違いはしたが、その人達もイエティのことについて一切気にしてないように思えた。イエティは、茂道を見つめたとき、この人疲れているなと思い、その疲れを和らげようとお茶を出したに過ぎないのだが、見知らぬ部屋に連れてこられたので、茂道に対して若干の怖れを抱いていた。茂道も、自分しか、このイエティに気づいていなく、何の目的があってイエティは自分にお茶を差し出したのか、理由がわからず、連れてはきたものの不安を抱いていた。互いに怖れを抱くと、コミュニケーションは様子を見ながら進むため、ゆっくりになっていく。茂道は、イエティに向かっていった。
「さきほどはありがとう。御礼にこれからたこ焼き作るからちょっと食べていって」
 当然ながらその茂道の言葉もイエティには意味を読み取ることが困難だった。戸惑っているイエティに茂道はたこ焼きプレートを用意して、冷蔵庫のなかから仕込んでいたたこやきの生地の入れた容器を取り出した。
「じゃあ、たこ入れて」
 茂道は温まったプレートに油を引いて、用意していた生地を型に流すと、イエティに刻んだたこを入れたトレーを渡した。イエティは、目の前に置いてあるたこ焼きプレートの熱気に何が起きるのだろうと気にはなっていたが、たこを渡されると、これは食べていいのだろうとぱくっとトレーごと口に流した。
「ああっ!何するんだ」
 驚いた茂道の表情にイエティは自分の行ったことが求めていないことだとわかり、なにかひどい仕打ちを受けないかとますます心配になった。茂道はイエティのその様子を見て、イエティは自分を怖がっていることがはっきりとわかった。
「ったく、何もしないよ。ほら、代わりにこれ」
 茂道は、今度は刻んだ筍を入れたトレーを取り出した。それを一つずつたこ焼きの型に入れた。イエティは自分に頼まれていたふるまいに気づき、茂道を手伝い同じように筍を一つずつ型に入れて、グルウと唸った。
「そうそう」
 しばらくしてから、茂道はたこ焼きピックを手に取り、生地を集めて、くるっと一つずつ回した。その様子を見て、またイエティはグルウと声を鳴らした。
「はい、青のりとソースをどうぞ」
 お皿に盛ったたこ焼きに茂道は青のりとソースをかけて、ほかほかのたこ焼きをイエティに渡した。
「たこ入っていないけど」
 イエティはお皿に載せられたたこ焼きを一つ手でつまんでは口の中に入れた。柔らかなたこ焼きの生地の食感に筍の食感が合わさって、ソースの味付けからイエティにも茂道の作ったたこ焼きがとても美味しく感じた。作ったたこ焼きの半分は茂道が食べ、もう半分をイエティが食べた。全て食べ終えると、イエティはまたグルウと唸りながら、満足そうな表情を浮かべて、茂道の部屋の玄関を出ようとした。
「なんでおれにお茶くれたのか未だにわからないけどありがとう。もう会う事もないだろうけどさ、またおれみたいな誰かがいたらきっとお茶用意するんだろ。そうやって色んな人の疲れを和らげてくれよ。きっと御礼に何か食べさせてくれるかもしれないよ」
 茂道の言葉をイエティはじっと聞いてはいたが、やはり何を言っているのかはわからなかった。
「今度はちゃんとしたたこ焼き食えるといいな」
 イエティは茂道の表情が駅で見かけた時とは全く違ってにこやかになっていたので、嬉しくなった。グルウと唸ってイエティは茂道の部屋の玄関を出ては姿を消して見えなくなった。

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