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あの日伝えたかったものの全て

放っておいたら悲しいくらい悲しいことがない。
きっといつも通りの毎日の中で蚕のように背中を丸めて歩く。歩く。
全てをいっぺんに変えてしまったあの日は、小さい子供が駄々をこねて破ってしまった一枚の絵のよう。それを無理やりセロテープでくっつけたから、「ハイどうぞ」なんて言われたところで日常に戻れるわけなんかない。
少しずつ、少しずつだけどあの日のことを逃げずにポツリと話せるようになってきた。あの日、あなたが伝えたかったものなんてきっとイージーだった。こんなにも複雑にしてくれることなんてなかったのにね。

*****

無気力を超えた意味もない自信が自分を支配する。
それは結局無気力だってこと。
周りが働き蟻に見えて滑稽で、僕は自分のナイフを研ぎ澄ましたふりをして日常を往復する。
バイト先の先輩は今日も優しかった。
「君の曲が一番良いよ」っていつも言ってくれた。
「これ、今度彼氏に聞かせてもいい?」
ダメに決まってるなんて言えるはずがなかったけどほんとは恥ずかしかった。だって初めて作った曲だから。
人に聞かせるために作ったのに、自分の内緒話を誰かに聞かれてるみたいで、こそばゆい。
先輩の彼氏は噂通りの茶髪で、目が鋭くて、出来るだけ関わり合いになりたくない人の部類。

「おー、君が噂のロック少年」
「今度俺のイベントで流してもいい?」

そんなに歳は変わらないはずなのに、僕を少年と呼ぶ、先輩の彼氏。
それがなんのイベントかわかるはずもなく、僕は貼り付けたような笑顔で恐縮する。

「おー少年、バンドどう?」なんて、会うたび気にかけてくれたり、
いつも優しい先輩とその彼氏。
美男美女で周りにもたくさん友達がいて、地元ではちょっとした有名なカップル。
そんな人たちに、ちょっとだけ、僕の曲を褒められただけ。
たったそれだけで秘密を共有した気になれたのです。

先輩の彼氏は11年たった今でも見つからない。
2011年3月10日、先輩に指輪だけ渡してこう言ったらしい。

「恥ずかしいから、明日ちゃんと言う」

その言葉だけを残して。

あの日伝えたかったものの最後の方は波に飲み込まれてしまって今もどこかに漂っているのかもしれない。
僕は思う。
「先輩の彼氏さん、あの、それもう全て言っちゃってるようなもんです」
あの日伝えたかったものの端っこだけ、僕は多分勝手に共有しています。

そして指輪だけ残ってしまった先輩は、それを指にはめて今日もあの日を振り返るだろう。きっと。
さよならを言える別れが幸せだと言うことを、誰よりも知っている。
あなたのいない世界で。





100円でいい事があります(僕に)