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#わかるとつくる

つかうとつくる〜セルフビルドとファブシティ

今年夏の1ヶ月を家族で過ごしたのは、AirBnBで見つけたサウスロンドンのWalters Wayという小さな通りに建つ一軒家だった。実はあとから知ったことだが、この家を含む近隣の家々は、1970年代から80年代にかけて、建築家ウォルター・シーガルの構想と監修のもと「シーガル・メソッド」と呼ばれる工法で施主たち自らの手によって建てられた「セルフビルド建築」の先駆けとして知られる建築だったのだ。もちろん建築史の中でセルフビルド建築のパイオニアは彼だけではないが、近年書籍化されてい

非日常を日常にする。日常を非日常にする。

今年の夏は家族を連れて1ヶ月間ロンドンで過ごしていた。小学生の娘と息子にとっては人生初めての海外旅行でもある。AirBnBでサウスロンドンの一軒家を借り、大英博物館やタワーブリッジといった観光名所巡りだけでなく、子どもたちと近くの大きな公園に通ったり、ロンドンでしかできない自由研究を一緒に考えてみたり、足を伸ばして郊外の小さな街へ小旅行をしたり、またTakram Londonへ毎日出勤する週もあったりと、いつもの夏休みとは違う貴重な経験になった。 ニセコのこと「いつもの夏休

わかるには大きすぎる(TOO BIG TO KNOW)

Eテレの子ども向け科学教育番組「ミミクリーズ」で番組づくりをご一緒している生物学者の福岡伸一さんによれば、世の中には、まず地図を広げてから動くマップラバー(地図好き)と、自分の前後左右を見て動くマップヘイター(地図嫌い)がいるという。地図で全体を俯瞰するマップラバーは堅実で無駄がないが、動き出すのに時間がかかり、地図がないと身動きが取れない。一方、地図がなくても勘と嗅覚で動き出すマップヘイターはいざという時もすぐに行動を起こせるが、場当たり的で試行錯誤が必要だ。一長一短、どち

正しさはどこにあるか

選挙とは、意見や考えが異なる人たちがそれぞれ自分の「正しさ」を主張する場である。当然そこにはお互いに相容れない「正しさ」が並んで存在することになる。ある党はAが正しいといい、またある党はBが正しいと言い、お互いに決して譲らない。そんな状況で急に選挙が始まってそれぞれの公約や政策だけを聞いていても、どちらが正しいのか、どちらを信じればいいのかわからず、思考停止してしまう人も多いのではないだろうか。 「否定の道」を探す 「正しさ」とはなんだろうか。「はじめて考えるときのように」

わからないものをつくる

What I Cannot Create, I Do Not Understand. つくれないものは、わかったとはいえない。 『情報環世界』を通して「わかるとつくる」を巡る思索の旅を続けていく中で出会った、物理学者ファインマンの最期のメッセージ。果たしてファインマンはこのメッセージで何を言おうとしているのだろうか?いや、そもそもファインマンの言ったことは本当に正しいのだろうか? What I do not understand, I can create. わからない

世界に変えられてしまわないために

「創造性を身につけるためにはどうしたらいいですか?」 トークイベントや学生向けの講義で、こんな質問をされることがある。その度にアイデア発想のヒントだったり、作品をつくる時に気をつけているポイントについて話すのだが、以前からこの質問自体にいつも何か違和感を感じていた。自分はたしかに「クリエイティブ」と言われる仕事をしているが、創造的であること自体を目標にしてきたわけではないし、昨今の「これからはAIに代替できない創造性を身につけなければならない」といったべき論にも違和感があった

予測する脳

ある日学校から帰ってくると、テーブルにリンゴが置いてあった。でも、これはほんとうにりんごだろうか。もしかしたら、これはリンゴじゃないのかもしれない。もしかしたら、見えてない反対側はミカンかもしれない。もしかしたら、なかはメカがぎっしりかもしれない。もしかしたら、実は何かの卵かもしれない。もしかしたら…。 「考える」とは、自分にとっての「当たり前」から飛び出して「可能性」の世界への旅をすること。ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』は、まさに「かもしれない」可能性の世界を

はじめて考えるときのように

もう20年近くも前のことになってしまうが、大学時代に受けた講義の中で、今でも記憶に残っている「科学哲学」という講義がある。哲学とは「そもそも」にとことん向き合う学問であり、「科学哲学」は「科学のそもそも」にとことん向き合う哲学ということになる。例えば、わたしたちはよく「科学的に正しい」という言い方をするが、そもそも「科学」は本当に「正しい」のだろうか?そもそも「正しい」とはどういうことだろうか?そんなことを科学史を紐解きながら考えていく授業だった。 歴史を振り返ってみれば、

読まない読書

本というのはとてもコストパフォーマンスの高いメディアである。哲学からエンターテインメントまで、アートからサイエンスまで、人類が紡いできた叡智や文化に、誰でも簡単にアクセスができるのだ。しかしながら、人生で本を読むことに費やせる時間は限られている。「いつ本を読んでいるのか?」と聞かれることもあるが、別に壁一面の本に囲まれた読書家というわけではないし、正直に告白すれば、ちゃんと最後まで読んでいる本は稀である。でもそれはそれでよいと思っているのだ。今回は、そんな読書法について紹介し

フィルターバブルと環世界、対話と共話

2017年にNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で開催されたシンポジウムに登壇した5人のボードメンバーを中心に、さらに議論を深める場としてはじまった「情報環世界研究会」だが、ボードメンバーの間で当初から共有していたテーマの一つに「フィルターバブル」があった。 フィルターバブルとは?世界の人々を繋げ、オープンなものにするはずだった情報テクノロジー。それが今や、データとアルゴリズムによって、広告から検索結果、SNSのタイムラインに至るまで、自分が見たいものしか見え

生物から見た世界〜「環世界」とは何か

前回書いたように、「情報環世界」は「環世界(Umwelt)」という概念を拡張し、現代の情報社会に適用した概念だ。そこで『情報環世界―身体とAIの間であそぶガイドブック』を読み解くために、まずは「環世界」とは何かをもう少し紹介しておきたい。 コウモリであるとはどのようなことか東京郊外の一軒家に住んでいた時のこと。ある日の深夜、2階で寝ていると1階の玄関ドアの内側にぶら下げていた小さな鈴がチリンチリンと鳴る音がする。窓もドアもちゃんと閉めたはずだが…。恐る恐る階段を降りて電気を