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「みんなひとり」の公共性

ひとり空間というものに興味がある。私自身ひとりでいることの方が好きで、一人で美術館に行ったり、一人旅をしたりして、自分の内面と深く向き合う時間を大切にしている。

そういったことが可能なのはいつも仲良くしてもらっている友人や大学の研究室というホームがあってのことなのだが、ここではそうした集団への所属を前提にした上で「みんなひとり」の可能性を簡単ではあるが書いてみたい。


様々なひとり

ひとりの面白さとは、その中にポジティブな感情もネガティブな感情も含んでいるということだ。

ポジティブな感情とは「内面と深く向き合う」や「複雑な人間関係から自由になる」など、主に自分を軸にした地点に立ち帰れるときに生まれるもののことだ。接続過剰な状態から解き放たれ、自分のペースで行動できる時の感情といってもよい。これを積極的孤独(=solitude)とする。

一方でネガティブな感情とは「あの集団は楽しそうだな」とか「喜びを共有できないな」といった社会的な孤立感から生まれるものだ。そこには常に比較対象があり、劣等感がつきまとう。これを消極的孤独(=loneliness)とする。

ひとくちに「ひとり」といっても様々な状態があり、社会的なお約束から解き放たれたことによる自由を指すこともあれば、反対に社会的なお約束を気にしてしまう束縛を指すこともある。


ひとり=ネガティブ?

ひとりというと何かとネガティブな側面が押し出されやすく、それは孤独死や孤立という社会問題にもつながるワードであると思うが、集団への所属という前提に立てば、説明したようにひとりとは必ずしもネガティブな側面だけではないと思う。

これは仮説だが、ネガティブな側面が押し出されやすいのは消極的孤独(=loneliness)を呼び出す状況になりやすいからであって、建築家がパブリックスペースを設計する際に『群衆』とか『市民』とかそうした人々を一掴みに捉えるようなやり方で公共空間を整備してしまったからなのではないかと思う。

利用者ひとりひとりに目を向けろとまでは言わないまでも、仮に自分ひとりで使うとしたらどうかなといった視点は公共空間において重要な考え方であり、そこには積極的孤独(=solitude)の視点が必要なのではないかと思うのだ。


「ひとり空間」について

ひとりにはポジとネガどちらも存在する。それは気の持ちようだろうと思う人もいるのではないかと思うが、私はそこに空間性が大きく関係していると思っている。ひとりだと気まずい空間というのはたしかにあると思う。

例えば遊園地。遊園地の目的は「楽しさを共有する」ことだろう。中にはマニアックな視点をもって訪れる人もいるかもしれないが、ほとんどの人はアトラクションに乗ったり、食事をしたり、写真を撮って楽しさを共有するために来ているだろうし、そうした共通理解のベースが出来上がっている。

他にもカフェテリアなどもひとりだと寂しいと思う人が多いのではないかと思う。食事は単なる栄養摂取ではなく、料理の感想を共有したり、雑談をしたりといった多義的な行為を含むことがその理由なのではないかと思う。

こうした「空間利用のズレ」が、ひとりをネガティブなものとして認識させる。遊園地は仕方ないにしても、カフェテリアに関してはレイアウト次第でひとりでも快適に利用できるのではないかと思う。

ここに積極的孤独(=solitude)の介入の余地があるように思う。一掴みな群衆の公共性の論理ではなく、ひとりとして利用するときに見えてくる「ひとり空間」の公共性の論理で空間を組み立てることができるのではないか。

先に述べた孤独死や孤立は建築が解決するには複雑すぎる。その人の能動性や人間関係に依存する部分が大きく、医療機関や公的機関の助けがメインになるのではないかと思う。

積極的孤独(=solitude)を主体とした「ひとり空間」の公共性は複雑な孤独の問題が深刻化する前のセーフティネットになるのではないかと思う。問題は「どこにも居場所がない」と錯覚してしまうことであり、そうした消極的孤独(=loneliness)を制御できなくなってしまうことではないかと思う。


「みんなひとり」の公共性

不思議な言い回しになるかもしれないが、今必要なのは「みんなひとり」の公共性ではないかと思う。スタバや図書館などはそのような状況を生みやすいのではないかと思う。ひとりで何かすることの方が自然で、たまにグループの人たちもいるがそこまで気にはならず、各々が積極的孤独(=solitude)を満喫している。そういう風景が浮かんでくるのではないかと思う。

ただ、これらふたつもまだ不十分な気がしている。スタバも図書館も「カフェ」や「読書」といった機能のうちに固定されてしまっているように思うのだ。無意識にそこでのふるまいを強制する力が働いているといえばいいのか、流動性が小さいように思える。

積極的孤独(=solitude)に移行できる空間を設えればそれでよい、と言えればいいのだけれど、そうすると群衆の公共性の論理に絡め取られてしまうように思う。ターゲットを設定することでそれ以外を排除する力が働いてしまうのではないかと思う。

無論建物を建てるというのは必要があってのことなので最終的にはターゲットが決まってくるのだが、その中にいかにして流動性や冗長性を組み込めるか、という話になるのではないかと思う。そしてそれがより開かれた積極的孤独(=solitude)を呼び込むようなデザインを考えたい。

乱暴に言ってしまうと、なんとなく来れる気軽さをもった場所を作りたい。コーヒーを飲んでもいいし、本を読んでもいいし、なんとなく屋内を散歩してもいい。疲れたらベンチで休憩してもいい。漂っている間に目的が決まってきて、パッと行動に移せる。そういう行動の基盤にあるのが積極的孤独(=solitude)なのだと思う。「なんとなく来れる気軽さ」とは、作ろうと思うと実はとても難しい概念なんじゃないかと思う。それを組み立てる土台として、「ひとり」というものがキーになればいいなと思っている。


まだまだ言語化できていない部分が多いので、焦らずじっくりと取り組んでいきたいと思う次第だ。ここまで読んでいただきありがとうございました。


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