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何者でもあること

生きていると、自分は何者かであると考えていることが多い。
職業や、家庭内での役割や、性別や。
例えば、
「母」であり「娘」であり、
「ケーキ屋」であったり、「雑貨製作者」であったり、
「医療従事者」であるという具合に。

生きていると、その何者かを示す肩書きは徐々に変わってくる。
「どこそこ大学出身」だったり、「元エンジニア」だったり。
時には、
「○○病の患者」だったり、「○○サバイバー」だったり。


龍樹の「時間」についての考察に、下記のようなものがある。

もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。

龍樹『中論』(中村元訳)

時間とは、何かしらの事象の「間」にあるものだから、
もし、事象がなければ時間も存在しない。
つまり、「時間」というものが単体では存在していないということ。

「自分が何者か」という問いも、これに似ている。

物事をジャンル分けして、あてはめていくのは時につまらない

生きていると、知らず知らずのうちに、
自分自身に「何者か」のレッテルを貼っている。
行動が自然と、社会が考える「何者か」になっていたりする。
「母らしく」「女らしく」「教師だから」「どこそこ大学出身だから」、
あるいは「ひきこもり」だから、「コミュ障」だから…。
言おうと思えばいくらでもある。

でも、誰かからの目がなければ、「何者か」なんて、実は存在していない。
だから、
自分が「何者か」にならなくてもよい。
なんなら、「何者でも」あってもよい。

そんな、何者でもあり、何者でもなくなる自由について、
ふと考えたのは、久しぶりに永瀬清子の詩を読んだからだった。

ファンタジーとしての詩の力

永瀬清子の「冬」という詩だった。

田を耕しながら詩を作った彼女。
彼女の見る景色、その色やそれを見た時の喜びが、言葉でいきいきと浮かび上がる。
それはファンタジーだ。
年にまたがる時間や、広がる空間、
そして、
その日の天気や、温度、光の具合、
一瞬の美しい芸術が、
ぎゅっと凝縮されて詰まっていた。

「詩」というものはそういうものかもしれないけれど、
どんな長編を読んでも伝わらないものが、
たった数ページで表現されていることに驚く。

絵を描くように、物語を書くように、計算するように

自分のことを何者だと言わなくても、
書くものをジャンルの名前で呼ばなくても、

いま、
言葉になっていないものを、
どうにか捕まえて、
言葉にのせていく。

これから、言葉を扱うときは、
そういう作業をしていきたい。そう思った。





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