頑張ったって認められない病気について
(今までで1番主観で書いた駄文なので、覚悟して読んでください)
頑張ってる人は、超好きだ。
素直に憧れるし、かっこいいと思うし、活力をもらえる。
それでも僕は「頑張る」って単語が嫌いだった。だから、頑張るって言わないし、頑張れって言わないし、頑張ったって言わない。
まるで「頑張る」って単語を使ったら、罰でも食らうんじゃないかって嫌悪感がある。
そして今日は、そんなしょうもなすぎる執着から卒業しようと思っているので、こんなnoteを書いている。
♢♢♢♢♢
「え、勉強してその点数なの?俺ノー勉で〇点だったけどね」
中学時代、勉強や運動が得意じゃなかった僕は、こんな言葉を複数の人から浴びた。はっきり言って、屈辱である。
12歳の少年にとって、世の中は全て結果で評価が行われて、かつ結果を出すために1番時間をかけなかった奴がすごい。という事実は、受け入れがたいものであった。
そして、自分が勉強においても、運動においても、結果を出すことのできない才能であるという事実もまた、受け入れがいたいものであった。
まとめるとこうだ。
・社会は結果を出したやつが認められる
・より少ない時間で結果を出したやつがすごい
・結果を出すには才能が必要だ
この事実を知ったとき、全ての希望を失った。ああ、俺には才能がないから人生ゲームにおいて勝つのは不可能なのか。そんなことに気付き、惰性でスクールカーストの最下層をこなす中学生活を送っていた。
どうやら僕の存在価値は才能に恵まれた人生の勝ち組にとっての、クリボーになり、踏まれて、彼らの幸福に貢献することらしい、、、
、、、
、、、
とかいいつつも、人は落ちるところまで落ちると、開き直るものである。
どうせいつか死ぬんだったら、この才能って概念をぶっ壊してから死にてえな。
中学生にして、1つ目の人生の目標が生まれた。
結果/時間で最強になろう
つまり、いかに頑張らないで成功するかが僕の生きる軸になったのである。(ここが頑張るって言えないのスタート地点)
他に楽しいことがあれば、こんなことを一々気にしなかったとは思うが、中学校の僕は友達がいなかった。暇だったのだ。
まず始めたのは勉強法探究だ。テストはできるだけ少ない時間で高得点を取った奴が偉いのだ。
ネットで「勉強法 効率」でググり、脳科学の本を読み、記憶術の本を読み、学校のテストの分析を始めるようになった。
今考えたら、中学生でそんなことをしている奴なんていないので、成績は一気に伸びた。受験1か月前も1~2時間しか勉強せず、ゲームばかりしていた。そして、うっかり、半年で偏差値を10くらい上げ、受かってしまった。
おお!頑張ってない!頑張ってないぞ!
一応周りの人は塾に缶詰で1日5~6時間くらい勉強して受かるような高校に、1~2時間勉強で受かってしまい、それが人生で初めての成功体験だったため、調子乗ることになる。
たぶん、高校に受かってから、受験期の話になると、「え、俺直前までずっとゲームばっかしてたけどね」って言っていたと思う。それがカッコいいと思ってたみたい。
ばーか。そんなんだから友達ができねえんだよ。と突っ込みたくなるが、引き寄せの法則とは実存するものなのである。
「え、俺は前の日ゲームしてたけどね」
結局、高校に入っても、努力しないで結果を残した俺が最強マウントゲームは続いていた。本質的には、捻れて友達ができないもの同士で仲良くなったのだろうが、、、
頑張らない俺に味を占めて、今度は心理学にも手を付けだした。
授業を聞く45分は「僕の考えた最強のべんきょうほう」に費やした方が時間を節約できるため、授業はほとんど聞かなくなった。内職は学校外での勉強というダサい行為をしないための最強の口実だった。
皮肉にも、実際の正体は、高校1年生から脳科学や心理学、過去問を分析し、皆が何も考えずに過ごしていた授業中に、国立合格という目的から逆算し、PDCAを回す”超頑張ってる高校生”である。
結局、高3の時も無理して頑張ることはなく、最後の夏休みは高校野球漬けでろくに勉強しなかったが、大学受験は上手くいった。僕への評価は、
頑張っても上手くいかない残念な奴
から
努力不足をセンスでカバーし、上手くいく奴
になってきた。中学時代に建てた目標は達成されたのだ。ここから先の話は割愛するが、
マーケティングに興味を持ったのは、新歓でビラ配りをするのが嫌すぎてTwitterを用いた広報が上手くいったからであり、マネジメントに興味を持ったのは、自分が時間を投資して成果を出すのはダサいからだ。
たくさん本を読むのも、効率よく成果を出すために知識が必要であると心得てるからだ。
本質的には何も変わっていない。
♢♢♢♢♢
その頃、僕は不都合な事実に気付く。
頑張らずに成果を残すためにめっちゃ頑張ってる説
である。いや、それはそれでいいだろって言いたいが、僕の変なプライドはそれさえも許さなかった。1度決めた価値観を曲げるのが怖いのかもしれない。
そして、こんな言い訳を思い付く。
頑張ってるって、無理してる感あるじゃん。そしたら、楽しくやればいんでしょ。好きでやれば、頑張るってことにならないでしょ。
ここまでいくと本当に気持ち悪いが、そんなこんなで、僕は日常生活での活力を高めるために、健康に力を入れ始め、無理しなくても、それなりに何事にもコミットできる体を作り上げてしまった。
だから、朝2時間の勉強も、僕にとっては当たり前の日常だし、ストレスも何もないので、頑張っていないのである。
頑張るとは、自分と向き合い、時には辛い思いをしながらも自分を変えたくない部分を変えていくことであり、それが楽しくできてしまえば、頑張っているとは言えないのではないか。
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でも、頑張るってカッコよくね
社会人になれば、僕のような捻くれた考えを持つ人はいなくなり、日常生活で頑張っている人がたくさんいる。
そして、僕はどれだけ時間をかけていようとも、どれだけ成果が出ていなくとも、その姿はカッコいいと感じるようになった。そして、
僕も頑張りたい!
と思うようになった。どう考えても、こんな屁理屈をこねくり回してnoteを書いている陰キャより、人目を気にせず、過去の自分を超えるために頑張っている人の方がカッコいいのだ。
でも、頑張るって言えない
でも、頑張るって言えないのだ。頑張ったって言えないのだ。もっと正確に言うと、頑張り方を忘れてしまったのだ。
客観的に見たら、(烏滸がましいが)人よりは努力している方なのは分かっているけれど、自分としては”頑張っている”という感覚がない。好きなことをしているだけなのだ。
筋トレとかランニングも、何か頑張ってる感を得られるんじゃないかと思って始めてみたものの、必要もないのに好きでやってるだけだから頑張っているとは言わないでしょ。
ってどうしても思ってしまう。ゲームを頑張っているって言わないはずだ。
愚直に頑張るって言えた方が応援されるのは分かってる。頑張りますって答えた方が上司からしたら気持ちがいいのも分かってる。客観的に見たら、頑張っていると見られる可能性があるのも分かってる。
ただ、僕自身は”頑張っていない”ので頑張っていると言えなくて、好きとセンスで片付けてしまう。
そんなしょうもない執着から逃れて、素直に頑張る!頑張った!って言える1年にするのが、今年の目標の1つになりました。
頑張ります(この一言を書くのも、気持ち悪いのである)
駄文、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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